カピオラニ王妃が過ごした時代には、エマ王妃やリリウオカラニ女王がいますが、カピオラニ王妃は政治の世界では目立った参加はしていないので、意外と知られていない人物です。
この記事を最後まで読んだときには、カピオラニ王妃のその魅力に虜になっていることでしょう。
カピオラニ王妃とは
By Unknown author - Hawaii State Archives. Call Number: PP-97-15-019 / Wikimedia Commons (Public Domain)
(Kapiʻolani Napelakapuokakaʻe)
出生地:ハワイ島 ヒロ
名前の意味・由来
「カピオラニ(Kapiʻolani)」は直訳すると「天国のアーチ」。「ka piʻo」は「アーチ(弓形)」、「lani」は「天国・天空」の意味を持ちます。
「空に浮かぶアーチ」と言われたら、思い浮かぶ物は…? そう「虹」ですね。
虹は空・天(lani)と地上を繋ぐ架け橋、ハワイ語の「lani」、実は「高貴・王族」などの意味もあります。王族と一般の人を繋ぐ、「カピオラニ」という名前にはそんな意味が込められているように感じます。
もう1つ由来があり、家系の中にハワイ島カウ地区、南コナ地区の上級酋長を務めたカピオラニ酋長がおり、その名前を付けたともされています。
マウイ島に縁がある名前
「ナペラカプオカカエ(Napelakapuokakaʻe)」は「カカエの聖なる肉体」と訳されるようです。(意味を調べましたが、そのような意味にたどり着けず、各単語の意味は割愛します。)
こちらに関しても正式な文献は見つけられていませんが、「カカエ」という名前は、マウイ島の最高酋長を務めた方の名前のようで、祖先にマウイ島の王族がいたため、この名前が付けられた可能性があります。
余談ですが、第42回ナ・ホク・ハノハノ・アワードの最優秀新人賞を獲得した音楽チーム「Nā Wai 'Ehā」が歌う「Eō E Nā Wai ʻEhā」にはマウイ島の4つの川が出てきます。曲の中でも、カピオラニ王妃の名前と似ている「カペラカプオカカエ」が用いられており、マウイ島とご縁があるのではないかと推測できます。
もうひとつの名前
カピオラニ王妃には、「エスター・ジュリア・カピオラニ」という名前もありました。
この名前は、キリスト教の洗礼を受けた時に付けられた名前のようです。しかし王妃はこの名前を使わなかったとか…
ハワイを愛し、ハワイアンだからこそ、ハワイ語の名前を大切にしていたのかもしれません。
家系・親族関係
- 両親
父親:クヒオ・カラニアナオレ( Kūhiō Kalanianaʻole )
母親:キノイキ・ケカウリケ( Kinoiki Kekaulike ) - 配偶者
デビッド・ラアメア・カマナカプウ・マーヒヌラニ・ナーライアエフオカラニ・ルミアラニ・カラーカウア( David Laʻamea Kamanakapuʻu Māhinulani Nālaʻiaʻehuokalani Lumialani Kalākaua )
両親の出生
父親 クヒオ・カラニアナオレ氏はハワイ島ヒロの上級酋長、母親 キノイキ・ケカウリケ氏は自身は役についていないものの、オアフ、マウイ、カウアイ島の王家と繋がりがありました。
当時のハワイでは名前に願いを込めるというよりも、その時起きている出来事や事実を元に付けられている傾向があり、両親の出生を見るとやはり、天(王族)と地(国民)を繋ぐ立場にあり、その事実を名前に付けたのではないでしょうか。
父親は「クヒオ・カラニアナオレ」
父親の名前を聞いて「え?」と思った方は、ハワイの王族や歴史に詳しいのではないでしょうか。
ハワイの祝日のひとつ「クヒオデー(Prince Jonah Kūhiō Kalaniana'ole Day)」が毎年3月26日にありますが、これはカピオラニ王妃の妹の子供、つまり甥にあたるジョナ・クヒオ・カラニアナオレ氏のことで、彼の功績を称えて制定されたものです。
「ジョナ」というのは付いていませんが、自分の父親と甥が同じ名前って…日本には「カメハメハ5世」のように、名前を引き継いで何番目と表すような文化がないので、不思議な感じがしますね。
だんな様はメリーモナーク
配偶者の名前をパッと見ると「どなたでしょうか、こちらの方は…」となってしまいそうですが、名前の最後に注目すると「カラーカウア」とあります。
「デビッド・カラカウア」というとお気づきになる方も多いと思いますが、そう、ハワイ王国第7代目の王様 カラカウア王がだんな様です。
生年月日と没年月日
- 生まれた日
1834年12月31日 - 亡くなった日
1899年6月24日没(64歳)
生まれた時はカメハメハ3世の治世
カピオラニ王妃が生まれた1834年は、カメハメハ3世が王様の時代。この頃から欧米社会の影響を徐々に強く受け始めます。そのためカピオラニ王妃も英語が少し話せるようでした。
カラカウア王との婚姻までの人生
高貴な家系の生まれではありますが王族の直系ではないため、幼少期の頃の詳細はあまり知られていませんが、16歳頃にはカメハメハ3世の保護下に入っています。
最初の結婚は18歳のとき
カピオラニ王妃と同じように身分の高い ベネット・ナマケハ・オ・カラニ( Bennett Nāmākēhā o kalani )氏と1852年、18歳のときに結婚します。彼はカピオラニ王妃の35歳年上の男性で、この時53歳です。
ナマケハ氏はカメハメハ4世の妻、エマ王妃の叔父にあたる人でした。
カピオラニ王妃とナマケハ氏の間に子供はなく、1860年の中頃になるとナマケハ氏の体調が悪化し、王妃の祈りも届かず、ナマケハ氏は亡くなってしまいます。
カピオラニ王妃は26歳で未亡人となりました。
2度目の結婚相手はカラカウア王
1863年12月、カピオラニ王妃は後のハワイ国王となるカラカウア王と結婚します。王妃29歳、カラカウア王27歳のときです。そんな2人の結婚は祝福されるものではありませんでした。
なぜならば、同年11月に当時の国王、カメハメハ4世が崩御しており、ハワイ全体が悲しみに包まれていました。2人はその時にひっそりと挙式をしたのです。その挙式には、カラカウア王の妹であるリリウオカラニ女王でさえも呼ぶことなくひっそりと。
しかし、このことはニュースとなってハワイを駆け巡り、2人は大きな批判を受けることになってしまったのです。
カピオラニ王妃(左)とカラカウア王(右)
By The London Stereoscopic and Photographic Company, pair-of-rare-1880s-cabinet-cards-of-king-kalakaua-and-queen-kapiolani, Public Domain / Wikimedia Commons (Public Domain)
カピオラニ王妃の功績
カピオラニ王妃は人のために尽くし、見返りを求めない慈愛の人。功績を見るとそのことがよくわかります。
積極的な募金活動や支援
カピオラニ王妃は王妃という立場でありながら控えめな方で、政治の表舞台には立たず、カラカウア王を支えていました。
当時のハワイは欧米など外国からの往来も盛んになってきており、人が動けばウイルスなども一緒にハワイへやってきます。それにより多くのハワイアンがインフルエンザ、麻疹、天然痘、百日咳などの病気に罹り、亡くなっていました。これらの病気に対する免疫が当時のハワイアンには無く、人口は大きく減少していきました。
そこでカピオラニ王妃はチャリティーの舞踏会、フェア、ガーデンパーティーを行うことで募金を集め、支援を行っていました。
母と子を守るための産院を設立
国民が様々な病気に罹り亡くなっていく中で、乳幼児の死亡率の高さにも着目していたカピオラニ王妃。1890年に産院「 The Kapiolani Maternity Home 」を設立します。子を守るためには、母も守らねば…自身が「ハワイアンの母」となり守っていく気持ちを感じます。
王妃には子供が無かったのですが、母体・生まれた子供・母親のケアをすることで、生まれた子が亡くならないよう、ハワイの人口増加、強い国家に繋がるよう願っていたのかもしれません。
「The Kapiolani Maternity Home」は、現在「 KAPI'OLANI MEDICAL CENTER FOR WOMEN & CHILDREN」としてホノルルにあります。
<カピオラニ・メディカルセンター>
ハンセン病の影響を受ける子供を守る
ハンセン病も外国人の流入によりハワイへ持ち込まれた病気です。当時は不治の病だったので、隔離のために家族と離れ離れになる、住み慣れた土地から離れなくてはならない状態でした。
そんな中
“ 両親が共にハンセン病に罹患していても、その子供自身はハンセン病には罹患していない ”
そういう状態の子供の事を王妃は考えられました。そして王妃は、その子供たちのために家を建てると決めたのです。
そして1885年11月に「 The Kapi'olani Home 」がオアフ島カカアコ地区に開設されました。そこは高台に作られ、心地の良い風が建物の中を通る設計になっていたようです。
入れるのはハンセン病に罹った両親を持つ少女、ハンセン病の疑いがある少女などで、そのケアに専念される場所でした。今はその役目を終え、1938年に閉鎖されています。
ちなみにこのホームは女子用のものであったため、その後男子用のホームがカリヒ地区に開設されました。詳しい記述は見つけられていませんが、こちらも役目を終え、閉鎖されていると思われます。
ヴィクトリア女王のゴールデンジュビリー
ウェルドン・ケカウオハ(Weldon Kekauoha)氏の「Queen's Jubilee」は、フラダンサーなら比較的ご存じの方も多いと思いますが、これは1887年、イギリスのヴィクトリア女王の治世50周年を記念してロンドンで開かれる大祝典に参加したリリウオカラニ女王が作られた曲。
カラカウア王の代わりにカピオラニ王妃がハワイから参加するので、同行してほしいとカラカウア王から妹であるリリウオカラニ女王に打診があり、女王は喜んでその申し出を受け入れたそうです。
曲を作ったのもリリウオカラニ女王なので女王が主役のように思えますが、ハワイ王国のトップはカピオラニ王妃です。
カピオラニ王妃は英語を流ちょうに話すことができなかったそうで、英語が堪能なリリウオカラニ女王が同行されることはさぞ心強かったでしょう。
この旅の同行者
この旅にはリリウオカラニ女王以外にも同行者がいました。
ジョン・オーウェン・ドミニス氏
リリウオカラニ女王のだんな様。オアフ島やマウイ島の王室総督を務めるなど重要な役職に就く。
カーティス・ピエフ・イアウケア氏
枢密院議員、国王の個人秘書官やカラカウア王の世界一周旅行の責任者を務めるなど、カラカウア王の信頼が厚い人物。
ジェームズ・ハーボトル・ボイド氏
カーティス・ピエフ・イアウケア氏の秘書官兼武官として同行した人物。カラカウア政権だけでなく、リリウオカラニ政権でも幕僚大佐に任命されるなど軍関連のポストに就く。
それ以外にも従者がカピオラニ王妃に4人、リリウオカラニ女王と上記の3名には少なくとも1人以上付いていました。
祝典の前にヴィクトリア女王と謁見
カピオラニ王妃一行がロンドンに着いたときには、街全体がヴィクトリア女王のゴールデンジュビリーの祝賀ムード一色でした。
到着後すぐにカピオラニ王妃は祝電を送り、心尽くしてお祝いします。
そして、祝典の前にはヴィクトリア女王と短い時間ですが謁見し、女王と王妃がソファに隣同士に腰を掛け、直接お祝いの言葉をお伝えになったそうです。ただ、カピオラニ王妃は英語がスムーズには話せないため、同行していたイアウケア氏が通訳をしました。
ゴールデンジュビリーの祝典に参加
祝典の前日の晩餐会、ウェストミンスター寺院での祝典などに参加したカピオラニ王妃一行ですが、そのもてなしはとても栄誉あるものだと感じることが多くありました。
多くの国賓が招待されている中、晩餐会での席次が中央であったり、祝典に向かう際の馬車がとても美しく、きらびやかに装飾されており、護衛の中でも精鋭の護衛が付いていました。これはヴィクトリア女王が自分の祝典に参加するために、ハワイという遠い所から来てくれたことへの心遣いでした。
そのことがわかったカピオラニ王妃一行は、この特別な栄誉に対し深く感謝しました。
多くの来賓や国民に祝福を受けながら行われた祝典の途中には、神に祈りを捧げている時に窓から差し込んだ光がヴィクトリア女王の頭上を照らしていることがあり、それはを見たリリウオカラニ女王はカラカウア王の戴冠式を思い出したそうです。
日本からも祝典に参加
日本からは小松宮彰仁親王(こまつのみや あきひとしんのう)が参加されました。
名曲「Queen's Jubilee」はいつ生まれた?
曲名は確認できていませんが、イギリスに向かう船の中でリリウオカラニ女王は歌を何曲か作ったようで、その歌の一つは、” 君主の偉大さや高貴なすべてを女王陛下にお見せできる "と期待を込めて書いたものだったそうです。
ゴールデンジュビリーの祝典に向かう途中で「君主」、「女王陛下にお見せできる」という言葉から、作られたのは「Queen's Jubilee」の可能性が高いでしょう。
ちなみにその希望は実現されたという記述もあり、実際にヴィクトリア女王にお届けすることができたのではないでしょうか。
カピオラニ王妃のドレスが話題
カピオラニ王妃がイギリスへ向かう途中のワシントンでアメリカのクリーグランド大統領と謁見し、ホワイトハウスの夕食会に参加しています。
その時に来ていたドレスが、ハワイの伝統的な衣装「ホロク(holokū)」で、" 中国の黄色い花が刺繍された日本製の絹 ”のホロクでした。
このホロクが注目を集め、当時新聞で紹介されました。そしてその事は海を渡ってヴィクトリア女王の耳にも届いており、パーティで着用してほしいとリクエストがあったそうです。
ハワイ王国の王妃として
ハワイからイギリスに到着するまでの間、訪れる先々で心温まるもてなしを受けたカピオラニ王妃一行。その中にはアメリカ大統領謁見や多くの貴族との交流がありました。
滞在する先々での丁寧な対応、ハワイの伝統的な衣装を纏って敬意を表し、ヴィクトリア女王に祝電を送るなど、常に心で接してきたカピオラニ王妃の振る舞いは、国王に代わってハワイを背負うものがありました。
今回の外交がハワイの認知度向上とともに、ハワイが野蛮な国ではないことを印象付けました。
カピオラニ王妃のモットー
功績を見ると弱い立場の人の味方であり、自分ができることを必ずやるという思いが見えてきます。
そんなカピオラニ王妃にはモットーがありました。それは慈愛の王妃からは想像できない、力強い言葉が2つありました。
Ho'oulu Lāhui - ホオウル ラーフイ -
ハワイには外国からやってくる人たちによって、これまでにない病気が持ち込まれ、カメハメハ大王がハワイを統一してから約40年ぐらいの間に、人口は半分ほどに減っていました。これまでのハワイ国王もその事に問題意識があり、心を痛めていました。
カピオラニ王妃も同じように思っており、だんな様であるカラカウア王が王位に就いている時、ハワイの人口を増やす取り組みが必要とし、この「 Ho'oulu Lāhui(ホオウル ラーフイ)」を王家のモットーに選んだとされています。
「Ho'oulu」は「繁殖、増殖する」、「Lāhui」は「国民、民族」などの意味があり、「国民を増やそう」という意味になります。
カラカウア政権のモットーではありますが、カピオラニ王妃の進言によるものとされており、夫婦で国民を増やすことに力を注いでいました。
Kūlia i ka nu'u - クーリア イ カ ヌウ -
カピオラニ公園に立つカピオラニ王妃像にも記されている言葉「 Kūlia i ka nu'u(クーリア イ カ ヌウ)」
「Kūlia」は「努める、励む」、「nu'u」は「高度、高地」の意味があり、「高みを目指して努力しよう」という意味。やさしい印象のカピオラニ王妃からは想像しづらい言葉です。
自分ができることは自分の力を尽くし、つねに最高点を目指す
そんな気持ちが感じられる言葉で、カピオラニ王妃は自分の視点を大切にし、自分にできることを考え、決まったら全力で取り組まれていたのではないでしょうか。
カピオラニ王妃と関わりの深い人物
カピオラニ王妃を詳しく知るためにも、どんな人と深い関わりがあったのか見ていきましょう。
私たち日本人でも知っている、ハワイの歴史に関わる人と繋がりがありました。
メリーモナーク カラカウア王
冒頭にも記載した通り、だんな様はメリーモナーク(陽気な王様)で有名なカラカウア王です。
1858年、カピオラニ王妃は、エマ王妃のご子息アルバート王子の世話人として任命されます。前夫ナマケハ氏と一緒に心を込めてお世話をしていました。しかし、王子は4歳の時に病で亡くなります。
この時、すでに未亡人となっていたカピオラニ王妃は、「王子が亡くなったのは自分のせいだ」と自責の念に駆られます。その時に寄り添っていたのが、数年前から知り合いだったカラカウア王とされています。
カメハメハ4世が崩御した直後の結婚で、カラカウア王の妹であるリリウオカラニ女王にも知らせず、密やかな挙式をされたお二人。その行動は批判を受けることを覚悟し、そこに参列したとなればその人も批判を受ける可能性があることから、リリウオカラニ女王にも内緒だったのかもしれません。
そのような状況だからこそ、お二人には強い絆があったのではないでしょうか。
カラカウア王からの贈り物
カピオラニ王妃の進言によりカラカウア政権のモットーとなっていた「 Ho'oulu Lāhui 」
カラカウア王は王室が所有していたワイキキにある広大な土地を献納し、公園を作りました。そう、その公園こそ「カピオラニ公園(Kapiʻolani Regional Park)」です。
現在では動物園、イベントができるステージ、テニスコート、植物園などがあり、住民だけでなく観光客にも人気のスポットです。とても広い公園なのでヨガ、フラ、ランニング、テニスなど様々なエクササイズやスポーツを楽しむ人で賑わいます。またワイキキの街中にあるホノルル動物園も人気の観光スポット。
「 Ho'oulu Lāhui(国民を増やそう)」 そのモットーを進言した奥様に敬意を表し、名前を付けたのでしょうね。この場所は、誰でも自由に運動やリラックスできることから多くの人が集う場所となり、それは今でもそのモットーに繋がってることを感じさせます。
またカピオラニ公園は、ダイヤモンドヘッドの麓にあり、まるでみんなを見守っているようですね。
<カピオラニ公園(Kapiʻolani Regional Park)>
カラカウア王への愛の歌 カ・イポ・レイ・マヌ
1890年、カラカウア王は療養のため、サンフランシスコへ旅立ちます。
療養のためではありましたが、サンフランシスコをはじめ西海岸にはカラカウア王と親しくする人がたくさんおり、行く先々で温かな歓迎を受けます。連日のように舞踏会や晩餐会が開かれ、おもてなしに喜びと感謝をしつつ、「一瞬たりとも休む暇がない」と綴っていました。
そのカラカウア王を思って作られた歌が「 カ・イポ・レイ・マヌ(Ka Ipo Lei Manu)」です。
その歌詞から感じられたのは、厳しい政権を強いられたカラカウア王ですが、カピオラニ王妃はその辛い時も共にハワイで過ごし乗り越えてきたこと、そしてカラカウア王がそばにいないことを心細く思い、早く元気になって療養の旅から戻ってくることを願っているように感じられました。
愛する王妃が自分のことを思って作ってくれた曲ですが、カラカウア王はハワイに戻る前に亡くなってしまい、この曲を聞くことはできませんでした。
この曲は「カ・イポ・レイ・マヌ」として広く知られていますが、カラカウア王が亡くなったことが報じられた後、新聞にこの曲が掲載されたようです。
その時に掲載されていたタイトルは「 KALANI KAULILUA(カラニ・カウリルア)」
訳の情報を見つけられませんでしたので、恐れ多くも私が訳すと「2つの空」。
王族は「lani」という言葉で表されることがあり、「kaulilua」には「2つの青い色」という意味があるのではないかと思い、そのように訳しました。
曲がカラカウア王を表しているのであれば、2つの空の1つは国王としての顔、もう1つは夫としての顔なのではないでしょうか。
または2人のことであれば、2つの空はカラカウア王とカピオラニ王妃と解釈できます。
ただこの文字を見た時に、カピオラニ王妃とカラカウア王の名前なのではないかと思いました。
KAULILUA:カウリルア ⇒ Kalakaua:カラカウア
若干こじつけ感はありますが、カラカウア王の方は実際に口に出してみると似ている感じがします。
もしかすると「カピオラニからカラカウアへ」という意味があったのかもしれませんね。
カラカウア王について詳しく
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ハワイ王国最後の王 リリウオカラニ女王
リリウオカラニ女王はカラカウア王の妹であるため、カピオラニ王妃にとっては義理の妹。
イギリスのヴィクトリア女王のゴールデンジュビリーの祝典参加のため、イギリスまでの旅を共にした仲間です。
そんな2人のエピソードとして、旅行中にリリウオカラニ女王が慌てることがあったようです。
着席しているカピオラニ王妃(右)立っているのがリリウオカラニ女王(左)
By Waleryhttp://www.hawaiialive.org/viewer.php?resource=277&hostType=sub&hostID=39 - http://www.onipaa.org/pages/photo-gallery, Public Domain/ Wikimedia Commons (id=14489408)
旅の間、リリウオカラニ女王は常にカピオラニ王妃のことを気にかけており、王妃が困ることがないように注意を払っていました。とはいえ、王妃にはお付きの人が誰かいるため、リリウオカラニ女王がサポートすることはそうそうありません。しかし、とある会場で事件が起こります。
それはゴールデンジュビリーの祝典の1つで、多くの国賓が集まる饗宴会場での出来事です。王室婦人が集まる控室があり、カピオラニ王妃とは別に移動してきたリリウオカラニ女王がその部屋に入ると、諸外国の王妃が集う中で、どうしたら良いのか、やや困惑気味の王妃を見つけます。
王妃は日頃からハワイ語を使っており、英語での会話はあまり得意ではなかったので、コミュニケーションが取れず、「次に何をしたら良いのかしら…」という状態だったようです。リリウオカラニ女王がハワイ語で「座りましょう」と話し、ようやく安心できる状況になったそうです。
ハラハラすることもありましたが、この旅を通じてリリウオカラニ女王は自分の目で世界を見て、様々な経験、諸外国の国賓や貴族と交流をしたことは、後のハワイ王国の王となった時に役に立ったことでしょう。
リリウオカラニ女王について詳しく
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カラカウア王と選挙で戦った エマ王妃
カメハメハ4世の妻であるエマ王妃とは、カピオラニ王妃がカラカウア王と結婚する前から交流がありました。どういう繋がりかというと、カメハメハ4世とエマ王妃の間に誕生した子供の世話役です。
当時のハワイは王族になかなか実子が誕生しない状態が続いており、「王家の子」として多くのハワイアンが喜びました。その子供の名前は「アルバート」
カピオラニ王妃は、アルバート王子の世話役として活躍していました。しかし、悲劇が起こります。なんとアルバート王子が病により4歳で亡くなってしまったのです。
カメハメハ4世、エマ王妃、カピオラニ王妃はもちろんのこと、「王家の子」が亡くなってしまったことはハワイアンたちもショックを与え、ハワイ全体を大きな悲しみが包み込みました。
さらに悲劇は続き、アルバート王子が亡くなった翌年には夫であるカメハメハ4世が亡くなってしまいます。国王が亡くなり、国中が喪に服している頃、カピオラニ王妃はカラカウア王と結婚しました。
自身の子供に次いで夫までもが亡くなったエマ王妃は、そんな2人のことが受け入れられませんでした。後にカラカウア王とは選挙で対立候補となったエマ王妃。しかし、選挙ではカラカウア王に敗れてしまいます。
その後も政府が執り行う儀式にカラカウア王がエマ王妃を招待しますが参加を見合わせるなど、エマ王妃の態度は硬化したまま。世話役を頼むほど仲のよかったカピオラニ王妃への当たりは強く、その態度を見たリリウオカラニ女王が嘆くほどでした。
父親と同じ名前 クヒオ王子
カピオラニ王妃の妹であるヴィクトリア・キノイキ・ケカウリケ氏(1843~1884年)の三男として生まれたジョナ・クヒオ・カラニアナオレ王子。
13歳になる年に母キノイキ氏が亡くなります。その時に叔母であるカピオラニ王妃の元へ養子として迎えられ、カラカウア王とカピオラニ王妃の子供となりました。その結果、王位継承権を与えられ、「プリンス・クヒオ」と呼ばれるようになりました。
冒頭の「両親の出生」部分でも名前について触れていますが、カピオラニ王妃の父親の名前は「クヒオ・カラニアナオレ」。名前で呼ぶとどちらなのか混乱しそうですが、クヒオ王子には「キューピッド」という愛称があり、「プリンス・キューピッド」とも呼ばれていました。
クヒオ王子について詳しく
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3月26日はハワイは祝日「クヒオ・デー」
3月26日、ハワイは祝日「クヒオ・デー」です。公共交通機関などすべてのものが休日扱いになります。The Busなどを利用する場合は休日ダイヤで運行され、お店の営業時間も休日の運用となるため注意が必要で ...
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ペレと戦った カピオラニ酋長
カピオラニ王妃についてインターネットで検索をすると、ハワイの火山の女神ペレ(Pele)と関連があるような記述が見られます。
これはカピオラニ・ナペラカプオカカエ王妃ではなく、名前の由来にもなっているハワイ島カウ地区、南コナ地区の上級酋長を務めたカピオラニ酋長(1781年頃~1841年)に関連しています。
1820年頃、宣教師がハワイに到来し、キリスト教を布教させる中、カピオラニ酋長もキリスト教に改宗した一人でした。酋長はハワイアンにキリスト教を広めるため、ハワイアンが信じている火山の女神ペレに挑戦したのです。
その方法はというと、女神ペレは「オヘロ('ōhelo)」というベリー系の実が好物で、自分が最初に食べないと怒るとされています。カピオラニ酋長はオヘロをペレに捧げず、自分が最初に食べるという行為をするのです。
女神ペレの怒りを買うということは…ハワイアンにとっては大変なことになると恐れられており、ハワイアンたちはカピオラニ酋長のその挑戦を止めようとします。
しかしカピオラニ酋長は「(その挑戦によって)自分が滅ぼされた時は、これまで通り火山の女神ペレを信じなさい。もしも自分が無事であれば真実の書物(キリスト教)に目を向けなければならない」とし、火山の女神ペレ vs キリスト教 の対戦を自身の身をもって見せるのです。
そしてカピオラニ酋長は火口に近い所へ行き、そこでオヘロを捧げず、最初に食べ、火口に石を投げ入れたのです。
その結果、カピオラニ酋長は溶岩に飲み込まれることもなく、ハワイアンが信じてきたものを無効にしました。
これがカピオラニ酋長にまつわる火山の女神ペレのお話となりますが、カピオラニ王妃の勇敢なお話ではありませんので、間違えないようご注意くださいね。
カピオラニ王妃という存在
最後に、カピオラニ王妃は政治への積極的な関与はなく、リリウオカラニ女王やエマ王妃など当時の他の女性よりも注目されにくいのですが、カラカウア王を支え、ハワイの国民のための取り組み、諸外国にハワイという国が野蛮ではなく、文化人で品があることを証明するなど、ハワイへの貢献度はとても高いものでした。
これらの行動は未来へと繋がり、今でも残っているものが多くあることこそ、カピオラニ王妃の真の力であり、偉大だと感じます。
ハワイにお出かけの際は、ぜひカピオラニ公園のカピオラニ王妃に会いに行ってみてくださいね。きっと温かな空気であなたを包んでくれます。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
Mahalo nui loa!! A hui hou!!
参考文献
矢口祐人「ハワイ王国-カメハメハからクヒオまで」(イカロス出版 2021年)
Liliuokalani「Hawaii's Story by Hawaii's Queen(1898)」(Arcadia Press 2016年)
Ruby Hasegawa Lowe「DAVID KALĀKAUA」(Kamehameha Schools Press 1999年)
Various Authors「The Legends and Myths of Hawaii」(e-artnow 2022年)
James W.L.McGuire「He moolelo pokole no ka huakai a ka Moiwahine Kapiolani, ame ke Kamaliiwahine Liliuokalani i ka iubile o ka Moiwahine Victoria o Beretania Nui」(1938年)
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