ハワイの歴史・王族

クヒオ王子 - ハワイを守り続けた“最後の王子”の生涯と功績 -

2021年3月23日

王になるための英才教育を受けている間にハワイ王国が崩壊し、最後の王子となってしまったクヒオ王子。失意からハワイを去りますが、愛するハワイに戻り、ハワイとハワイの人々を守ろうと最後まで奮起したその姿は、多くのハワイアンに愛される人でした。
※この記事はボリュームがあるため、お急ぎの方は目次をご活用ください。

スポンサーリンク

クヒオ王子とは

By Unknown author - Hawaii State Archives,Public Domain/ https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17252445

ジョナ・クヒオ・カラニアナオレ
(Jonah Kūhiō Kalanianaʻole)

出生地:カウアイ島 コロア

名前の由来

クヒオ王子の名前は、両親の父親(クヒオ王子からすると祖父)の名前から命名されています。

<父親の父>
ジョナ・ピイコイ( Jonah Piʻikoi )
<母親の父>
クヒオ・カラニアナオレ( Kūhiō Kalanianaʻole )
日本でも
「おじいちゃんの漢字を一字もらって…」
ということがありますので、ハワイでも同じように祖父や祖母の名前をいただくという文化があるようです。

mahalo
mahalo
ハワイではカメハメハⅡ世など、名前の継承もあるわね

家系・親族関係

  • 両親
    父親:デビッド・カハレポウリ・ピイコイ( David Kahalepouli Piʻikoi )
    母親:ヴィクトリア・キノイキ・ケカウリケ( Victoria Kinoiki Kekaulike )
  • 配偶者
    エリザベス・カハヌ・カレイヴォヒ・カアウワイ( Elizabeth kahanu kaleiwohi ka’auwai )

ハワイの酋長の子孫

父方、母方の家系図を辿っていくとハワイ島、マウイ島、オアフ島、カウアイ島の高酋長の名前が並びます。
さらに母親であるヴィクトリア・キノイキ・ケカウリケ氏の姉は、ハワイ王国第7代王であるカラカウア王の妻、カピオラニ王妃です。

aloha
aloha
血筋を見ても王様になることが有望な印象ね

ハーナイを経て、カラカウア王の子供になる

クヒオ王子は両親を早くに亡くします。
ハワイには「ハーナイ( hānai )」という養子縁組、里親になる文化があり、珍しくはないことです。
クヒオ王子は母親の姉であるカピオラニ王妃(クヒオ王子から見ると叔母にあたる)とカラカウア王夫妻とハーナイします。このハーナイはクヒオ王子だけではなく、クヒオ王子の兄であるデビッド・カワナナコア王子も一緒で、2人は国王の子供となり「王子」となりました。

養父カラカウア王について詳しく

11月16日はメリー・モナーク 陽気な王様 カラカウア王の誕生日

フラダンスを愛する人に人気の王様、ハワイ王国第7代カラカウア王。 「メリー・モナーク」陽気な王様としても有名で、日本の中でも知名度が高いハワイの王様です。 宣教師により禁止されたフラダンスを復活させ、 ...

続きを見る


養母カピオラニ王妃について詳しく

カピオラニ王妃 - 様々な角度からハワイに貢献した慈愛の人 -

カピオラニ王妃が過ごした時代には、エマ王妃やリリウオカラニ女王がいますが、カピオラニ王妃は政治の世界では目立った参加はしていないので、意外と知られていない人物です。 この記事を最後まで読んだときには、 ...

続きを見る

生年月日と没年月日

  • 生まれた日
    1871年3月26日
  • 亡くなった日
    1922年1月7日没(50歳)

3月26日はハワイでは祝日 プリンスクヒオデー


クヒオ王子が生きた時代にはハワイ王国は崩壊、ハワイ共和国となり、後にアメリカに併合されます。
そのような状況でもハワイを愛し、いずれは国王になる可能性があったクヒオ王子は、アメリカ領となった後も「ハワイ」と「ハワイアン」を守るための活動をします。
ハワイのために貢献したクヒオ王子を讃え、1949年にハワイ準州議会で制定されたのが「プリンス・クヒオ・デー」です。
クヒオ王子の誕生日を祝日としていますので、多くのハワイアンがクヒオ王子を称え、思いを馳せる日となっています。

一度はハワイを捨てた?! ハワイへの愛を再燃させるまでの軌跡

実はハワイ王国が崩壊する前から、ハワイにおけるハワイアンの立場は弱くなり、外国人富裕層が権力を振るい始めていました。
その様子を間近に見ていたクヒオ王子だからこそ王国が崩壊、王政復古できないとわかると何とも言えない気持ちがあったのでしょう。
そんなクヒオ王子の幼少期からハワイへ貢献するまでの軌跡を辿りましょう。

大きな瞳とその明るさから付いたニックネーム

クヒオ王子を語る上で外してはいけないのが、クヒオ王子にはキュートな愛称、ニックネームがあるということです。
それはクヒオ王子が幼少期の頃。現在のイオラニスクールに通っている時に、その愛くるしく、大きくキラキラした瞳と、いつも笑顔で人を惹きつけるその様を見た教師が「キューピッド」というニックネームを付けたとか。
そして王子となった時、「プリンス・キューピッド」と呼ばれるようになったそうです。
プリンス・キューピッドと聞こえたら、「クヒオ王子だ 」とピンと来たら、もうあなたはハワイマニアです!

mahalo
mahalo
かわいいニックネームだから、呼ばれたらうれしいわね♪

ハワイをもう一度リリウオカラニ女王の手に

1893年、外国人富裕層によるクーデターにより、ハワイ王国は倒されてしまいました。
その後、暫定政府が主導を取り、1894年「ハワイ共和国」となりましたが、「ハワイ王国」を取り戻そうと奮起するリリウオカラニ女王。ただ、女王の思うように事は運ばず、逆に不利な状況に追い込まれていました。それでもリリウオカラニ女王は女王を信じる者たちに
武力行使はいけない。アメリカやイギリスなどの支援を待ちましょう
と説きます。
リリウオカラニ女王はクーデターの真相をアメリカやイギリスに正しく説明し理解してもらえれば、ハワイ王国を取り戻せると信じ待っていました。

しかし、クヒオ王子を始め王政復古を願う人々は武力行使も辞さない考えがあり、そのための準備をしていました。暫定政府やハワイ共和国による対応はハワイアンにとって不利益な事ばかりで、皆の中の不満や怒りが頂点に達しようとしていたのです。
そして1895年1月6日に王政復古を願う人々による反乱が起こり、クヒオ王子もそこに加わりますが、失敗に終わってしまいます。その結果、反逆罪として捕らえられ1年間服役します。

ハワイではなく、他の土地へ移ることを決意

釈放後、もはや「プリンス」ではないクヒオ王子。自分が生まれたハワイ王国がなくなり、ハワイ共和国の一般市民となってしまったことに、自分の存在意義すらわからなくなったことでしょう。
1898年8月にハワイはアメリカに併合され、王政復古が叶わないと思い知らされます。
さらに1899年には従妹であるカイウラニ王女、その3か月後には養母であるカピオラニ王妃が亡くなり、失意と悲しみがクヒオ王子を大きく包みました。
その頃にはすでにエリザベス・カハヌ・カレイヴォヒ・カアウワイ王女と結婚していたクヒオ王子ですが、2人でハワイを離れ、世界へ旅に出ました。

ジョナ・クヒオ・カラニアナオレ王子とエリザベス・カハヌ・カレイヴォヒ・カアウワイ王女
By Unknown author - Hawaii State Archives,Public Domain/ https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=12450589

いろいろな国を旅して、南アフリカに永住を決意するも…

クヒオ王子夫妻はハワイのことを考えないようにするためなのか、いろいろな国へ渡り、クヒオ王子はスポーツなどの観戦、カアウワイ王女はショッピングなどを楽しんでいきます。
その中で南アフリカの文化、特に狩猟に関心を持ったクヒオ王子は、そこに永住することを決意しました。

ところが、しばらくしてハワイの土地が恋しくなり、あることに気づきました。
もう王政復古を切望する気持ちが無くなっていることに…。

ハワイ王国を愛するがあまり、それが叶わぬ状況に強い苦しみ、悲しみ、痛みを感じていたでしょうが、旅をする内にそれらの気持ちが消えていたのです。
気分を一新して、ハワイへ戻りました。

aloha
aloha
やはりハワイが一番だったのね

もっとクヒオ王子を知りたい人はこちらもチェック

カラカウア王から王位継承権を兄ディビッド・カワナナコア( David Kawānanakoa )王子とともに受けたクヒオ王子は現イオラニスクールに通ったり、カラカウア王の命によりイギリスへ留学し、農業、工業、産業について学びます。国をまとめる王になるにはそういう知識も必要であるとカラカウア王は感じていたのでしょう。
その知識を活かしてリリウオカラニ女王政権では、内務省や財務・税関関連の仕事を務めました。
兄のカワナナコア王子と2人が一緒に写っている写真を見ると、顔もよく似ていますね。

ジョナ・クヒオ・カラニアナオレ王子(右)とデビッド・カワナカコア王子(左)
By Gabriel Bertram Bellinghausen - Brother Bertram Photo Collection, Public Domain/https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=59624745

スポンサーリンク

ハワイの王にはなれなくても、ハワイの代表をつかみ取るクヒオ王子

1900年にハワイはアメリカの準州となり、政治もアメリカの連邦議会が舞台となります。
クヒオ王子は「議員」さらにはハワイの代表議員となることで、ハワイの政治に強く関与し、ハワイを守ることができると考えたのかもしれません。

入党したのはハワイ王国を壊滅させた人たちが集まる政党

ハワイにはいくつかの政党があり、クヒオ王子も党に所属していました。その党はハワイ王国を愛する人々が集う党でしたが、第1政党ではなかったようです。
そこでクヒオ王子は、ハワイを守るための政策を実行するにはどうするべきか考えたのでしょう。答えは簡単、第1政党である共和党に入ることです。

しかし、共和党はハワイ王国を壊滅に追い込んだ外国人富裕層が代表を務めており、いわば宿敵。その党に入るということは「敵に寝返ったのか?!」と見え、またその行動を取った真意が明確にはなっておらず批判もありました。
これはMana の推測ですが、そこで自身が代表となれば、

アメリカの力を借りながらハワイをよくすることができる
自身が所属していた党と協力することができる

そのような思いがあったのではないでしょうか。

かなり奇抜な発想なので思いつくこと自体もすごいのですが、もしかしたらうまく行かないかもしれないのに実行してしまうところが、一度はハワイに別れを告げたことの強さなのかもしれませんね。

プリンス・キューピッドの人気で代表を勝ち取る

クヒオ王子は「プリンス・キューピッド」と呼ばれ、ハワイアンに人気がありました。
共和党へ移った時も、不思議と多くのハワイアンが彼に倣って共和党員になりました。
きっとハワイを愛し、大切に思っていることが伝わったのでしょう。またクヒオ王子が敵の懐へ入ったことは考えがあっての事と信じて、付いてきてくれたのでした。
そして、1903年には代表選に勝利し、1922年に亡くなるまでハワイのアメリカ合衆国議会への代表を務めました。

ここから、クヒオ王子のハワイへの数多くの貢献の歴史が始まります。

才能を活かし、権力を利用しながらハワイとハワイアンを守る政治家へ

ハワイの代表となり議会へ参加することができるクヒオ王子。
ハワイが良い環境となるよう、ハワイアンがハワイアンらしく過ごせるよう、プリンス・キューピッドならではの愛嬌と話術で予算を取り、外国人をも味方につけていきます。
しかし、ハワイアンにとって良い政策を打ち出しても、過去の二の舞になるのではないか…不安が付きまといます。

これまでの王族と倣い、人々の心を掴む

ハワイ王国を再建させることは難しいことがわかっていたクヒオ王子は、「郷に入っては郷に従え」という気持ちでアメリカのやり方に順応していきます。
クヒオ王子は人気がありましたが、ジョークやちょっとした皮肉を交えたりしながらのトークは楽しいもので、多くの人が王子の話しに耳を傾けていました。
その中でハワイの人たちに対し、これまでの君主制とは違い、国民がハワイにとって残された仕事をするために政府があることを説いていきました。

またクヒオ王子はハワイ各地を回り、その土地の有力者の家を訪問します。そこでも温かな歓迎を受けつつ、これまでと変わらない「自国への愛」を貫き、それがアメリカとなった後はその現実を受け入れ、自分たちの声をしっかりと挙げて、良いものにしていこうと伝えていたのではないでしょうか。

その各地を廻って親交を図るやり方は、ハワイ王国の王族がしてきたのと同じ。元王族であるクヒオ王子が近くに来てくれることはその土地の人にとってはとてもうれしいこと。
人々の心を掴んだのは愛嬌だけではなく、大切にする心があったからこそですね。

話術を活かすために、まずは戦いの場を整備する賢さ

クヒオ王子はハワイ語は堪能で流ちょうに話すことができましたが、英語はそこまでではなかったようです。
しかし、議会では英語で話しをしなくてはなりません。英語が得意な人なら問題はありませんが、もしも自分がその立場になったら…日本語ならスムーズに話せるのに、英語になるとちょっとしたニュアンスの違いがあったり、きちんと伝わるか不安になります。

きっとクヒオ王子も同じような気持ちだったのでは?という想像にすぎませんが、クヒオ王子はハワイの人がハワイの言葉で自分の思いを伝えられるように、そうすることで対等になる、言葉の壁を取り除きたかった思いがありました。

そしてついに議会に
議会では英語とハワイ語を併用してよい。ハワイ語を公用語として認める
ことを求める法案を提出しました。
いろいろ議論があり、最終的には10年間、ハワイ語は議会における公用語となったのです。
しっかりと戦うためには”言葉 ”という最大の武器を使えるようにするところがさすがですね。

mahalo
mahalo
ハワイ語はハワイ王国の宝だもんね

スポンサーリンク

クヒオ王子がハワイに残した数々の功績とは

クヒオ王子の最大の願いは「ハワイの発展・繁栄」でした。
ハワイ王国時代から多くの外国人がハワイに到来し、それとは逆に多くのハワイアンが病で亡くなっていくのを見てきたからこその願いです。

真珠湾の重要性を認知し、拡張するための予算獲得に奮起

クヒオ王子は『 Pu’uloa(プウロア)』の重要性を理解し、整備する必要があると感じていました。ちなみに『 Pu’uloa 』は「真珠湾(パールハーバー)」のことです。

1898年にアメリカ領になる前から真珠湾はアメリカに譲渡されていた場所。ですが、アメリカ本土から物資を運ぶための大型船舶が入れるような港にはなっていませんでした。
そのため真珠湾を整備、拡張することで必要な物資を受け入れられるようにしたいと考えていました。
そしてアメリカとしてもハワイは軍事基地として重要な場所であり、そのため整備したい思惑があり、クヒオ王子はオアフ島に軍事基地を建設するための資金をしっかりと確保して、真珠湾を始め、ホノルルエリアを整備しました。

予算を確保して整備をするということは、その仕事ための雇用が生まれます。きっと多くの住民がその仕事に就くことができたのではないでしょうか。

ハワイに灯台を建設するための作戦

クヒオ王子には、ハワイに灯台を建設するための助成金を獲得するという、大きな任務がありました。そのため管轄の委員会に資金の援助をお願いしますが、当時ハワイはあまり重要されておらず、資金調達ができませんでした。
その時クヒオ王子は、彼らがハワイのことを知らないから、重要性やどのぐらい良い所で守る価値があるのかわからないのだと気づいたのでした。

そこでクヒオ王子は「みんなにハワイを知ってもらおう!」ということで、上院議員たちをハワイの自宅へ招き、ハワイを知ろうキャンペーンを展開したのです。ユーモアのあるクヒオ王子のことですから、さぞ楽しい時間を過ごしたり、美しい景観を見たり、ハワイの良さを体感してもらったことでしょう。

その効果は大きく、実際にハワイを見たことで上院議員たちにはハワイという土地がリアルになり、その法案がハワイにとって必要なのか、良い影響をもたらすのかなど、これまでよりしっかりとイメージできるようになりました。

その中で灯台建設の助成金もしっかりと得ることができ、マカプウポイントの灯台などが設立されました。

aloha
aloha
百聞は一見に如かずよね

もっとクヒオ王子を知りたい人はこちらもチェック

クヒオ王子の願いをハワイ語で表すと
Ho’ōla ⇒ 救う、癒やす、保護する
Hoʻolaupaʻi ⇒ 豊かさを生み出す
Hoʻoulu ⇒ 繁殖、増殖する
です。
『 Hoʻoulu 』は義父カラカウア王がモットーとした「 Ho'oulu Lāhui(ホオウル ラーフイ)」と同じで、このモットーはカピオラニ王妃が進言したものです。
『 Ho'oulu Lāhui 』には「国民を増やそう」という意味があり、ハワイアンの血を絶やさないよう、ハワイアンを増やしたいという気持ちがクヒオ王子にも受け継がれていますので、ハワイのために心血を注いだのではないでしょうか。

クヒオ王子の最大の仕事 ハワイアンホームズコミッション法の制定

1910年、ハワイの土地を所有するものであれば自由に開拓ができる基本法が改正されました。しかしそれはハワイの人々を保護できるような内容ではありませんでした。
そこでクヒオ王子はこの改正法に対し
ハワイの人々のためだけの穏やかで守られた土地を作る
という目的で拡張法案を議会に提出しました。

それが1921年に制定された「ハワイアンホームズコミッション法」 (Hawaiian Homes Commission Act of 1921)です。

ハワイアンホームズコミッション法とは

20万エーカー(約809平方キロメートル)の土地を、ハワイ人の血を50パーセント以上引く人たちに分け与えるという、ハワイアンを祖先の土地に還し、ハワイアンとハワイの土地を守ることが目的の法律

ここでクヒオ王子が議会でこの法に関して演説した内容をご紹介します。
“ ʻO kēia kānāwai e makemake ʻia nei no ka hoʻihoʻi ʻana aku i nā Hawaiʻi ma luna o ka lepo o ko lākou mau kūpuna i mea e hoʻomau ʻia ai ke kūlana o kēia lāhui kanaka, ua hōʻoi ʻia aʻe ma muli o nā kaiaulu poʻokela o ia mau pae moku, a e loaʻa ʻiʻo ana nō he hoʻomau ʻia ʻana aku o ka nani mau o ia lāhui i nā hanauna e hōʻea mai ana. Ke manaʻo nei wau ma kēia pila, ua ulu aʻe he kūlana i kāʻokoʻa aʻe mai nā mea maʻamau mai. Malia paha he kuleana ko mākou ma lalo o ke kānāwai, he ʻoiaʻiʻo naʻe, he kuleana pilikino ko mākou e koi aku e hoʻokaʻawale ʻia kēia mau ʻāina. ʻAʻole mākou e noi ana e hāʻawi mai ʻoukou i ia mau ʻāina ma ke ʻano he makana, akā, ma ke ʻano he hana kaulike, a e kīkoʻo mai i nā lima kōkua, me ka lilo ʻole ma ka ʻaoʻao o ke aupuni o ʻAmelika Hui Pū ʻia, i ka lāhui e hoʻāʻo ana e hoʻopulapula iā lākou iho, he lāhui kanaka i aloha i ke aupuni o ʻAmelika Hui Pū ʻia.”(Kākau ʻia e Kāwika K. Burgess,CHAPTER 12,Ka Pila Hoʻopulapula,para8)

[ハワイの人々を祖先の土地に帰還させ、この国の地位を継承するために必要なこの法律は、各島々の有力なコミュニティによって承認され、まさにこの国の美しさを未来の世代に伝えるものです。これは、通常の状況とは異なる状況が生じていると思います。私たちには法に基づく権利があるかもしれませんが、これらの土地の分割を要求する個人的な権利があります。私たちは、贈り物としてこれらの国々に譲り渡すことを求めているのではなく、平等な行為として、アメリカ合衆国政府に味方することなく、自らの領土を広げようとしている人々、アメリカ合衆国政府を愛する人々に手を差し伸べることを求めているのです。](Mana訳)

なぜこのような演説を行ったのか

クヒオ王子が見てきたハワイアンは外国人富裕層の権力や外国人の増加による立場の弱体化があり、外国人の到来と共にハワイにはなかったウイルスが持ち込まれ、多くのハワイアンが亡くなったり、生活に困窮していました。
この基本法の改正により、その状況がもっと進行してしまい、”ハワイ ”という土地と強い結びつきがあるハワイアンがいなくなってしまう=ハワイの完全なる消失に繋がるという気持ちになってしまったのではないでしょうか。

ハワイアンこそがハワイの土地をよく知っていて、タロイモなどハワイ古来からの作物を上手に栽培できるなどハワイの伝統文化を守っていくことができる、だからこそハワイアンを守る必要があると思っていました。

ハワイアンはちょっとおっとりした所があるので、外国人からは時としてあまり働かない印象を持たれていたようですが、クヒオ王子は専用の土地があり、その土地は自分たちの土地だと認識があれば、ハワイアンは適切な食物を栽培したりでき、その道のプロになれると信じていました。

思い起こされる「グレートマヘレ」の悲劇

1848年、カメハメハ3世による統治時代に「グレートマヘレ」と呼ばれる土地の分割が行われました。
なぜそのようなことが行われたかというと、当時のハワイでは「土地は王様の物」であり、私有地はありませんでした。
しかし外国人からの不満の声もあり、カメハメハ3世は王様の土地の一部を必要な人に分け与えました。
ただ、そこには手続きが必要であり、多くのハワイアンがその申請方法を知らずに過ごしたため、これまで使っていた土地を失うことになりました
ハワイに住む人のことを考えた政策がハワイアンの立場を弱くすることに繋がった、グレートマヘレの悲劇です。

クヒオ王子はそのこともわかっていたので、その悲劇を繰り返さないようハワイアンに
みんなで協力、支え合いながら、自らを救っていかなくてはなりません。
と説明していました。

mahalo
mahalo
同じ轍は踏まないという気持ちに溢れてるね

カメハメハ大王を称えたカメハメハ協会を再設立

1865年、カメハメハ5世はハワイ諸島を統一したカメハメハ1世を称えるために、「カメハメハ協会( The Royal Order of Kamehameha I )」を設立しました。
カメハメハ5世は1世と同じように強い王制を望んでおり、当時の制度はそれに反する物でした。そのためハワイ王国の主権を守るために、この協会を設立したのです。

カメハメハ5世
By Unknown author - Edward Solon Goodhue (1900) Beneath Hawaiian Palms and Stars, The Editor publishing company, p. Page 176, Public Domain/ https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=12619045

カメハメハ協会とは

ハワイの古代文化、慣習、伝統を保存し永続させること、ハワイの人々を高めることなどが目的。
会員となれるのは、その目的を達成するために貢献できるハワイの血を引く男性のみ。

しかしハワイ王国崩壊後、この協会は脅威になると当時の政府に思われていたため、協会は閉鎖に追い込まれました。クヒオ王子は過去の王族に倣うことで変われると信じ、自信を失ったハワイの人々の心を動かそうとする一環で、このカメハメハ協会を1903年に復活させたのです。

この協会は現在も存続しており、カメハメハデーの記念行事を運営するなどの活動を続けています。
カメハメハデーのイベントは、パウライダーが登場するパレードやカメハメハ大王像へのレイ・ドレープなどがあり、カメハメハ大王を称え、多くの人が楽しみながらハワイの伝統や文化を知る機会となっています。

カメハメハ大王像へのレイドレープ

こちらもハワイを盛り上げるために設立 ハワイ市民クラブ協会

1918年、クヒオ王子は「ハワイ市民クラブ協会( ASSOCIATION OF HAWAIIAN CIVIC CLUBS )」を設立します。
先程のカメハメハ協会の再設立と同じで、国家としては王政復古はできないものの、ハワイアンが以前のように自信を持ち、自身で生活をしっかり立て、またハワイ全体を良いものにするため互いに協力していくことがハワイの人々に必要であり、王族に代わって人々を引っ張っていく役割を協会に持たせました。

ハワイ市民クラブ協会の目的

1.ハワイ国家の衰退を食い止める
2.ハワイの若者を教育する手段を整備する
3.ハワイの人々の生活水準を向上させる

こちらも現在も活動中で、プリンス・クヒオパレードなどを開催しています。

クヒオ王子はその他にヒロ埠頭、キラウエアのハワイ火山国立公園の設立などもあり、数々の遺産をハワイに残しています。

もっとクヒオ王子を知りたい人はこちらもチェック

クヒオ王子はハワイ全体を強くするために、地方権力の強化を図ります。
ハワイの地方権力というとわかりづらいかもしれませんが、1845年にハワイの首都はオアフ島になっています。よってオアフ島以外の島が「地方」となりますが、オアフ島だけでなく、それ以外の島も統治を行う必要があると考えていました。
その統治を行う単位を「群」として割り振り、その群政府制度は今日も続いています。
例えば「マウイ群」と呼ばれるエリアは、マウイ島、ラナイ島、カホオラヴェ島、モロカイ島です。※厳密にはもう少し細かい区分けがありますが、ここでは詳細は割愛しています。
クヒオ王子はハワイ全体でまとめるよりも細分化して、それぞれのエリアで自身が信頼できる人たちを役職に就け、ハワイ全体が協力をしながら新しい政府の機能を活かし、ハワイ全体の底上げを図ったのではないでしょうか。
住民にとっては大切なことであり、住民ではない私たちが普段意識することはほぼありませんので聞きなじみがないことですが、今もクヒオ王子の思いが受け継がれているように思います。

ハワイに多く存在するクヒオ王子が愛されている証拠

ハワイの未来に失望し、一度は他国への移住を決めたクヒオ王子ですが、ハワイへ戻った後も多くの国民に愛されていました。それはハワイという土地、そしてそこに住む、とりわけハワイの血を受け継ぐハワイアンを大切にしてきたクヒオ王子の活動や取り組みは、歴代の国王と肩を並べてもよいと思う程の功績です。
その結果、今でもクヒオ王子はハワイで愛される王族の一人です。

クヒオ王子を称える歌は今でも作られている

ハワイでは王族に関連する歌が多く残されていますが、今でもハワイアンミュージシャンにより新たな歌が作成されています。それだけ王族を誇りに思い、後世に伝えていきたいのではないでしょうか。
日本では歴史上の人物の歌というのはあまり聞いたことがありませんので、ハワイらしい文化と言えます。

1904年に新聞に掲載されたメレ

『メレ( mele )』とはハワイ語で「歌」を表します。
クヒオ王子が活躍中の1904年に新聞に掲載されたひとつのメレ。それはクヒオ王子を称えたメレで、タイトルは『 Ka pūnua i ka poli 』のようです。私 Mana の個人的な主観を入れてタイトルを訳すと「愛しいキューピッド」でしょうか。
少しだけハワイ語の説明を入れますが、『 i ka poli 』は「胸」、『 Ka pūnua 』は「羽根が生えたばかりのひな鳥」です。羽が生えたばかりのひな鳥は、モフモフでかわいらしい存在=キューピッドと思い、それが胸の所にいますよとなると愛しい気持ちになるので、そのようなタイトルにしました。

このメレの作者のお名前は確認できていないのですが、一人の男性によって作られたようです。

ハワイアンホームズコミッション法を感謝するメレ

ハワイアンミュージシャンによって作られた『 Hanohano no ‘o Waimanalo 』は、オアフ島のワイマナロという地域のすばらしさを歌ったメレです。

この曲の中にはクヒオ王子の名前が出て来たり、土地に関してのことが歌われている部分があります。歌詞を読むとワイマナロという土地がハワイアンのための土地であること、その土地には植物などの生命が豊かであることなどが伝わってきます。
クヒオ王子が11年もの月日を掛けて制定にこぎつけた「ハワイアンホームズコミッション法」により与えられた土地であり、そのことへの感謝は今でも受け継がれているように感じられます。

Mana's コラム

私自身、この曲でフラを踊ったことがありますが、その歌詞の部分ではクヒオ王子を想いながら踊りました。
私はハワイアンではありませんが、この曲の背景にある歴史を知っているだけでハワイアンの一員になれたような気がして、踊っている時にワイマナロの風景やクヒオ王子の顔が頭に浮かんでいました。
またワイマナロエリアにある「ワイマナロビーチ」は全米No.1の美しいビーチに選ばれたことがあります。
それは観光客が少ない土地だからかもしれませんが、ワイキキビーチなどとはちょっと違い、ローカルのルールなどもありますので、お出かけの際は現地の情報をしっかり調べていくと良さそうです。

クヒオ王子はシンボルとなり今もハワイを見守る

クヒオ王子は今でもいろいろな形でハワイを見守っています。
まずはワイキキのクヒオビーチパーク前にあるクヒオ王子の像です。王子のことを知らないと「誰が偉い人の像なんだな~」ぐらいで通りすぎてしまいますが、ワイキキの目立つところに建立され、ハワイアンやハワイに住む人だけでなく、私たち観光客も見守ってくれています。
次回のハワイ旅行でぜひ探してみましょう。

クヒオ像イメージ

次にワイキキのカラカウア通り( Kalakaua Ave. )とアラワイ運河のちょうど真ん中ぐらいに位置するクヒオ通り( Kuhio Ave. )があり、通りの名前にもなっています。
道の名前で言うとワイマナロエリアから主に南へ延びているカラニアナオレハイウェイ( Kalaniana’ole Highway )もあります。

また無料のフラショーがサンセット時に楽しめる場所として、クヒオビーチが有名です。フラショーの開催は曜日や時間が決まっていますが、フラショーとサンセットが見られる場所なので、かなりの人でにぎわいます。良い場所でフラを見たいと思ったら、早めに行って場所を確保すると良いでしょう。

さらにハワイ州における連邦政府ビルにもクヒオ王子の名前が付けられており、「 The Prince Kūhiō Federal Building 」と呼ばれています。

旅立ちのときまでハワイの未来を思っていたクヒオ王子

50歳という若さで亡くなったクヒオ王子。その最後の時に口にしたのは自分の事ではなく、ずっと思っていたハワイの未来に向けてのことでした。

クヒオ王子 旅立ちのとき

クヒオ王子は1922年1月7日にワイキキの自宅で亡くなりました。その日の新聞にはその事が掲載され、ハワイは大きな悲しみに包まれました。
クヒオ王子の葬儀は、ハワイで最後に行われた王族のための国葬でした。そこには多くのコミュニティや人々が集まり、クヒオ王子のこれまでの活躍を称えました。その様子は、それまでのハワイの中では最大の行列と言われるほど、多くの人が集まりました。
クヒオ王子のご遺体は、カワイアハオ教会に一週間安置された後、多くの人に見守られながらヌウアヌにある王家の霊廟であるマウナアラに埋葬されました。

最後に語ったこととは…

クヒオ王子は旅立つ前に友人に次の言葉を残しています。

“E huliāmahi nā Hawaiʻi a hoʻāʻo e ʻae like e like me ka mea hiki, i hiki ke loaʻa ka haʻina o ka pilikia nui, ʻo ia hoʻi ke ola o ka lāhui.”(Kākau ʻia e Kāwika K. Burgess,CHAPTER 14, Ka Hele Palanehe i ke Ao ma ʻŌ,para5)

[ハワイの人々はみんなで合意に向けてできることをしていけば、大きな問題についても意見することができ、国家存続に繋がる。](Mana訳)

クヒオ王子の最後の言葉は、
「元々ハワイアンは誇り高き、アグレッシブな民族だったが、外国人富裕層の政治参入や圧力により、その思いや自信を失ってしまった。それにより自分たちではどうにもならないという雰囲気を変えたかった。それを実践し、できることを証明したので、みんなも同じように意見を伝え、折り合いをつけていくことでハワイという場所はこれまでと変わらず守られていくよ」
と言っているように感じました。

ハワイのために駆け抜けたプリンス・キューピッド

ハワイを取り戻したいという気持ちをハワイという国ではなく、ハワイという土地をハワイアンのために取り戻すという方向へ変えたクヒオ王子。
カードゲームでは何度も勝利する戦略家であり、冗談を交え、ユーモアのある話ができる頭の回転の速さがありました。その柔軟性、洞察力、交渉術があるからこそ、これだけ多くのことを成し遂げられたのではないでしょうか。

次のハワイに旅行ではクヒオ像を見に行く、ワイマナロという土地に足を運んでみるなど、クヒオ王子のゆかりの地を訪れるのも良さそうですね。
ハワイを愛する人なら、クヒオ王子は両手を広げて受け入れてくれそうです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
Mahalo piha !! A hui hou !!

参考文献

 矢口祐人「ハワイ王国-カメハメハからクヒオまで」(イカロス出版 2021年)
 Liliuokalani「Hawaii's Story by Hawaii's Queen(1898)」(Arcadia Press 2016年)
 Kākau ʻia e Kāwika K. Burgess「Jonah Kūhiō Kalanianaʻole 」(Hale Kuamo’o 1998年)

この記事の参考文献として使用した「ハワイ王国-カメハメハからクヒオまで」は、1冊でハワイ王族のことが簡潔まとめられているのでオススメです。
※もしかしたら今はAmazonでしか販売されていないかもしれません。

同年代のカイウラニ王女

10月16日は美しきプリンセス・カイウラニの誕生日

「プリンセス・カイウラニ」という映画もできるほど人気のカイウラニ王女。 生まれた時にはハワイ王国に大きな喜びを与え、多くのハワイアンの希望の星となった王女の人生は、歴史的な事件に大きく翻弄されました。 ...

続きを見る

叔母のリリウオカラニ女王

ハワイ王国の最初で唯一の女王リリウオカラニ

ハワイ王国時代の最後の君主であるリリウオカラニ女王。ご存じの方も多いと思いますが、どのような人生だったのか、少しだけ見てみましょう。 リリウオカラニ女王は才能あふれる女王 「悲劇の女王」と呼ばれること ...

続きを見る

スポンサーリンク

スポンサーリンク

-ハワイの歴史・王族