ハワイ王国時代の最後の君主であるリリウオカラニ女王。ご存じの方も多いと思いますが、どのような人生だったのか、少しだけ見てみましょう。
悲劇の女王?アロハ・オエの作者?才能あふれる女王
「悲劇の女王」と呼ばれることが多いリリウオカラニ女王。それ以前にハワイで初めての、そしてリリウオカラニ女王のときにハワイ王国が転覆してしまうので、唯一の女性の王様です。
もうひとつ、リリウオカラニ女王の代名詞になるのが作詞・作曲されたラブソング「アロハ・オエ」。
これらにクローズアップしてみましょう。
リリウオカラニ女王の基本情報
まず初めに、リリウオカラニ女王の名前、生年月日などの基本的な情報を見てみましょう。
- 名前
リリウ・ロロク・ワラニア・カマカエハ(出生時)
Liliʻu Loloku Walania Kamakaʻeha
リディア・カマカエハ(洗礼を受けた後の名前)
Lydia Kamakaʻeha - 生年月日
1838年9月2日 - 亡くなった日
1917年11月11日没(79歳) - 治世
1891年1月29日~1893年1月17日 - 出生地
オアフ島 ホノルル - 身長
5フィート7インチ(約170cm) - 兄弟
兄:デビッド・カラカウア(7代目ハワイ王国君主)
妹:ミリアム・リケリケ
※他に4人兄弟がいます。
出生時の名前の由来
キリスト教徒として洗礼を受けた際に名前が変わっています。出生時の名前の由来ですが、その当時のハワイでは誕生日に関連した出来事をとって名前を付けていました。当時の摂政が眼の感染症を患っていましたので、その言葉を使って名前が付けられました。それぞれの意味は次の通りです。
- リリウ=ピリピリする
- ロロク=涙が出る
- ワラニア=灼熱の痛み
- カマカエハ=目の痛み
兄弟もハワイ王国君主
7人兄弟の3番目に生まれたリリウオカラニ女王ですが、兄はかの有名なデビッド・カラカウア王です。ハワイ王国7代目の君主であり、陽気な王様と称され、禁止されていたハワイの伝統文化フラを再生させた王です。
そして「リリウオカラニ」という名前は、兄のカラカウア王が王様になり、後継人に選任された際に変更しました。
悲劇の女王と呼ばれる由縁は3つの不運
リリウオカラニは兄のカラカウア王が病気で亡くなると王位を継承し、ハワイで初めての女王となります。
リリウオカラニ女王の取り組み
リリウオカラニ女王が王位を継承した時は、すでにアメリカやイギリス出身のエリート層に政権の大半を握られている状態でした。君主ではあるものの、政治への権力がほとんどなかったのです。
そこで女王は、
君主の権力とハワイアンの権利回復のための憲法の制定
宝くじとアヘン取引の合法化
上記2つを実施しようとしました。
クーデターを起こした人たちは、
自分たちの価値観や利権を脅かされる
ハワイがアメリカの領土にしよう
という考えを持った、上述の利権を持つのエリート層などです。
不運1:連邦政府の方針の確認なく、クーデターを支援
当時、アメリカ連邦政府は「ハワイ併合」に対して、方針ははっきりと決まっていませんでした。ただ、当時のホノルルに駐在していたアメリカ領事が、それまでの前例を参考に、連邦政府に相談することなく、クーデターの支援を決めてしまいます。それにより、ホノルル港に停泊していたアメリカの海軍兵士が上陸してきました。
不運2:連邦政府が臨時政府を認知
アメリカ軍を抑えるほどの力がなかったリリウオカラニ女王たち。やむなく降伏し、クーデターを起こした人たちによって「臨時政府」が樹立されます。
しかし、リリウオカラニ女王は、アメリカ軍の兵力を使ってクーデターを成功させたことをアメリカ大統領が知れば、ハワイ王国を復活させてくれると信じていました。
しかし、アメリカ連邦政府は、クーデターに関するアメリカ介入の違法性は認めつつも、臨時政府を認知してしまうのです。
不運3:中途半端なクーデターにより逮捕
臨時政府が「ハワイ共和国」を宣言しますが、それでもリリウオカラニ女王は廃位していなかったため、女王としての存在は認められていました。またハワイアンから圧倒的な支持を受けており、近いうちに必ずハワイ王国を取り戻せると信じていました。
そのためにはアメリカの支援が不可欠だったのですが、アメリカは協力してくれず…。業を煮やしたリリウオカラニ女王の支援者たちがクーデターを企てますが、その計画が漏れてしまいます。その結果、リリウオカラニ女王は首謀者として逮捕されます。
不運が重なり、悲しい結果に
この時、リリウオカラニ女王はイオラニ宮殿に8カ月もの間、軟禁されます。さらに、女王支持者の命と引き換えに、正式に廃位することを求められ、みなの命を救うため同意します。
これにより1895年1月24日、ハワイ王室は消滅しました。
悲劇の女王リリウオカラニは、いくつもの不運が重なったことで愛するハワイ王国を失ってしまいました。
リリウオカラニ女王が作った「アロハ・オエ」の背景
アロハ・オエはラブソングですが、その制作の背景は諸説あります。
作られたのは1878年
1895年、イオラニ宮殿で軟禁中に作られたと思われがちですが、実は1878年に作られています。軟禁中に、以前作ったものを書き写し、それが世に出ていきました。
その曲の背景にある愛の物語とは
リリウオカラニ女王が兄のカラカウア王に後継者指名され、将来の勉強のため、妹のリケリケを連れてオアフ島一周の旅をします。
ワイマナロにある牧場を訪れた際、一人の青年とリケリケは惹かれあいますが、リケリケはすでに結婚しており、その恋が実ることはありません。別れを惜しむ青年とリケリケを見て作られたという説があります。
別の説としては、再びワイマナロの牧場を訪れますが、その青年は今回は同行することになっていました。牧場を離れるとき、青年は若い女性にレイを贈られていた姿を女王は目にします。その場にリケリケはいなかったようですが、その様子を見て作られたという説があります。
「アロハ・オエ」はラブソング?
上述の背景の通り、ラブソングと思われますが、別れの歌と思われていることが多いです。たしかにどちらの説を見ても、ハッピーエンドにはなりません。
また軟禁中に書き写しており、ハワイ王国への思いとも取ることができますね。魅力的なハワイ王国、ずっと心の中にある、また会える時まで…そんな気持ちが乗せられているように捉えられるため、悲しみの歌とも思われることがあります。
さいごに
リリウオカラニ女王は、廃位後もハワイアンのことを思い、活動をしていました。それは叶いませんでしたが、今もハワイ王室の女性として尊敬されていることは間違いありません。
参考文献:ハワイとフラの歴史物語
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