ハワイの歴史・王族

11月16日はメリー・モナーク 陽気な王様 カラカウア王の誕生日

フラダンスを愛する人に人気の王様、ハワイ王国第7代カラカウア王。
「メリー・モナーク」陽気な王様としても有名で、日本の中でも知名度が高いハワイの王様です。

最初のハワイアン・ルネサンスを起こし、時代の先駆者

宣教師により禁止されたフラダンスを復活させ、ハワイに初めて電気の明かりを灯し、明るい印象の王様。
しかしその裏では王の権力を奪おうとする人たちと戦い、ハワイを守ろうとする姿がありました。
どんな王様だったのか、カラカウア王の人生を見ていきましょう。

カラカウア王の基本情報

まず初めに、カラカウア王の名前、生年月日などの基本的な情報を見てみましょう。

  • 名前
    デビッド・ラアメア・カマナカプウ・マーヒヌラニ・ナーライアエフオカラニ・ルミアラニ・カラーカウア
    David Laʻamea Kamanakapuʻu Māhinulani Nālaʻiaʻehuokalani Lumialani Kalākaua
  • 生年月日
    1836年11月16日
  • 亡くなった日
    1891年1月20日没(54歳)
  • 出生地
    オアフ島 ホノルル
  • 両親
    父親:シーザー・カルアイク・カマカエフカイ・カハナ・ケオラ・カパアケア( Caesar Kaluaiku Kamakaʻehukai Kahana Keola Kapaʻakea )
    母親:アナレア・ケオホカーロレ( Analea Keohokālole )

本文で王の名前は「カラカウア王」と一般的な表記にしています。

両親はともに酋長であり、兄弟にはリリウオカラニ女王

ハワイには「Ali'i(アリイ)」と呼ばれる貴族階級制度がありました。Ali'iには職業も階級も区分けがありますが、カラカウア王の両親はともに「酋長」であり、父親のカパアケア氏よりも母親のケオホカーロレ氏の方が階級が上だったそうです。
そして両親の間には多くの子供が生まれていますが、兄弟にはハワイ王国最後の王であるリリウオカラニ女王、美しきプリンセス カイウラニ王女の母親であるリケリケ王女がいます。
ハワイの歴史に大きく関わる人たちが、カラカウア王の周りには小さい頃からいたのです。

クイーンズ・メディカルセンターがある場所

現在、ホノルルのダウンタウンにある「クイーンズ・メディカルセンター」は元々、父親のカパアケア氏が保有していた土地とされています。
カラカウア王は「Pūowaina(プーオワイナ)」と呼ばれる、ヌウアヌ・パンチボウルの麓付近で生まれたとされているため、この場所で生まれたのかもしれませんね。
なお、クイーンズ・メディカルセンターは、1859年にエマ王妃とカメハメハ4世によって設立されました。

<クイーンズ・メディカルセンター>

カラカウア王の名前の由来

「カラカウア(Kalākaua)」は直訳すると「戦争の日」。「ka lā」は「日」、「kaua」は「戦争」の意味を持ちます。
この名前になったのは、その当時、実際に2つの戦いがあったとか…。
1つ目は、ハワイでは「Hānai(ハーナイ)」と呼ばれる養子に出される習慣があり、カラカウア王もその習慣に則って養子に出ています。元々養子に行く家が約束されていたのですが、実際は別の家になりました。その際、元々行く予定だった家が怒り、その結果、2つの養子先の戦いがあったからというお話。
2つ目は、当時の国王カメハメハ3世がイギリスと条約を締結したのが、カラカウア王の誕生日。この条約にサインする前には、その内容について折り合いがつかず、議論が尽くされたとか。最終的にはイギリス側から脅迫めいたことがあり、条約締結となりましたが、まさに戦った条約でした。
どちらが影響しているのか、両方なのか詳細はわかりませんが、その時の出来事に由来して名前が付けられるのは、当時のハワイの文化なのかもしれません。

mahalo
mahalo
名前が「戦いの日」だから、人生も戦いが多かったのかも?!

有名なあの方の子孫

カラカウア王の家系図を辿っていくと、すごい方にたどり着きます。
そのすごい方というのが、カメハメハ1世(カメハメハ大王)時代の国務顧問を務めたカメエイアモク(Kame'eiamoku)氏です。

お名前だけではピンと来ない…
aloha
aloha

名前だけではピンと来ないかもしれませんが、イオラニ宮殿などで見ることができるハワイ王国の紋章に描かれている人物の一人がカメエイアモク氏です。

向かって右側、上に黄色の飾りがついた棒を持っている方が、カメエイアモク氏です。飾りがついた棒は「Kāhili(カーヒリ)」という王室を象徴するもので、鳥の羽が棒の先についています。
ちなみに、左側はカメエイアモク氏の双子の弟、カマナワ(Kamanawa)氏です。

「メリー・モナーク」カラカウア王の誕生

ハワイ王国の第7代目となったカラカウア王はどんな人だったのか、またどのような人生を歩んだのでしょうか。
メリー・モナーク」その愛称の通り、陽気な王様だったのか…

国王になるまでに就いた仕事

若い時から軍事に関心があったカラカウア王は、14歳の時に軍事訓練を始めます。それから2年後の16歳の時にハワイ軍の大尉に任命されました。
そこから次々と政府の要職に就いていきます。

・陸軍少佐を経て大佐
枢密院すうみついん議員※
・ハワイ王国議会の貴族院議員
・郵政長官
・国王侍従長(カメハメハ5世の治世時)
※枢密院とは議会の招集、裁判官や知事の任命など、君主による全ての行為について助言し、承認する役割を持つ機関。

カラカウア王は軍事以外にも法律にも関心が高く、若い時に法律の勉強をしていました。上記の通り、政府の要職に就いていましたが、再度法律を勉強するため国王侍従長を辞任し、法律の勉強を再開させ、弁護士の資格を取得しています。
弁護士の資格を取った後は、王国の土地事務所の事務員として働いていました。これは推測ですが、土地事務所の法務担当を担っていたのかもしれません。

そして1874年、選挙で勝利し、ハワイ王国の国王となります。

国王になるための選挙

カラカウア王は国王になるために、実は2回選挙に出ています。ハワイ王国第6代目と7代目を決める時の選挙です。
ハワイ王国第5代目ロット王も、第6代目ルナリロ王も後継者の指名をせず崩御されました。
王位継承権があっても、国王に後継者として指名されていないと国王にはなれません。また逆に王位継承権がある人を後継者指名したいと思っても、OKの返事がもらえないこともあるようです。

まず1回目の選挙では、ウィリアム・チャールズ・ルナリロ氏がもう一人の候補者でした。ルナリロ氏は大変な人気があったようで、カラカウア王は圧倒的な大差で負けてしまいます。
ルナリロ王が誕生した後は、軍事の大佐に任命され、政治活動に関係していきます。
しかし、ルナリロ王は病に倒れ、治世はわずか一年で亡くなります。国王について後継者を指名していなかったため、また選挙が開催されることとなり、カラカウア王は2回目となる選挙に出馬します。

そして2回目は、カラカウア王とカメハメハ4世の妻であるエマ王妃との選挙になり、カラカウア王が選出され、1874年に第7代目ハワイ王国の国王となりました。

メリー・モナークと呼ばれる由縁

カラカウア王といえば、日本でも「メリー・モナーク(陽気な王様)」の愛称で多くの方が知っているでしょう。それではなぜ「メリー・モナーク」と呼ばれるのか、本当に「陽気な王様」だったのか気になりますね。

 理由その1:ハワイアンソングやダンスへの情熱は人の何倍も
芸術の才能溢れるカラカウア王は人の事も好きなので、たくさんの人々との交流を楽しんでいました。そんな時には友人たちとハワイアンソングを歌ったり、曲に合わせて踊ったりするのが大好きでした。

 理由その2:フラダンスを完全復活させた人
カラカウア王が治世を始めた頃はフラダンスをはじめ、ハワイの伝統的なことがいろいろ禁止されており、かなり衰退した状態でした。フラダンスもごくわずかな許可を受けた人たちが続けることができる状態で、ハワイアンソングはハワイアンが集まっても、ほとんど歌われることはありませんでした。
情熱的で「ハワイはハワイアンのもの」という理念を持つカラカウア王にとって、ハワイの伝統的な文化が衰退していくのは見ていられなかったのでしょう。

ハワイの国王になり、自身の戴冠式の時に古いメレ、チャント、フラを知っているハワイアン全員に、戴冠式への参加を呼び掛けたそうです。さらにそこには音楽学者も呼び、古代ハワイから伝わる伝統舞踊を見せ、その素晴らしさを理解してもらおうと努めたのです。
これを批判する人もいましたが、カラカウア王は50歳の誕生日の祝賀会や他の貴族の邸宅で開催された祝賀行事でも、フラダンスなどをエンターテインメントとして取り入れました。

 理由その3:溢れる音楽の才能
カラカウア王は音楽が好きなので、仲間たちと音楽グループを作り、コンテストなどに参加していました。さらに自ら作詞・作曲もしていました。

mahalo
mahalo
ご先祖様が才能ある音楽家だから、その血を引いているのね♪

カラカウア王が作詞した曲で有名なのが「ハワイ・ポノイ」です。この曲はハワイ王国の国歌となり、現在でもハワイ州の公式の歌として歌われています。
また、その他にもたくさんの曲を作っています。

 理由その4:実は発明家?!
時代に敏感だったカラカウア王は、最新の発明品を見つけては利用していました。単に見つけて使うだけでは満足できなかったのか、才能溢れるゆえに何かひらめいたのか、何と自分で発明しようとチャレンジするのです。
その中のひとつが潜水艦用魚雷だったようですが、これを作るにはかなりのお金が必要だったので、投資家から作るための資金を集めようとしましたが…残念ながら資金は集まりませんでした。

aloha
aloha
今でいうクラウドファンディングね

軍事に関心が高いので発明も軍事的なものがありましたが、望遠距離計のようなものも設計していたようです。

 理由その5:口ひげは当時のトレンド
カラカウア王の姿を思い出すと浮かぶのは特徴的な「ひげ」が挙げられるのではないでしょうか。
実はこのひげは「マトンチョップ(mutton-chop)」と呼ばれるもので、実際のマトンチョップ(骨付きの羊の肉)の形が由来のネーミングで、もみあげからつながったひげの上側(もみあげの方)は細く、頬からあごにかけて幅が広がっていくひげのスタイルです。

このスタイルは、当時、口ひげを生やすのが流行しており、多くの男性がこのマトンチョップスタイルにしており、カラカウア王も流行に乗っていたのです。

 「メリー・モナーク」と言われるその理由は…
ここまでのことをまとめると、

・ハワイアンソングが大好きで、歌うのも踊るもの好き
・禁止されているハワイ文化を復活させるほどの攻めた行動
・音楽の才能があり、仲間とグループを組んで活動
・発明をするためにクラウドファンディングを実施
・流行に乗ったファッション

このようになり、ここだけ見ると「王様」が持つ厳格、尊大なイメージはなく、楽しく、ちょっとやんちゃな人柄をイメージさせます。
そんなところが「メリー・モナーク(陽気な王様)」と呼ばれる由縁ではないでしょうか。

カラカウア王の活動・政治

2回目の選挙でハワイ国王になったカラカウア王。
ハワイが世界で通用するための国となるために、歴代の国王がしたことのないことにチャレンジして行きます。
しかし、その華やかな一面とは対照的に、政治ではかなり厳しい決断を迫られる緊迫した状況を迎えます。

アメリカとの相互主義条約

ハワイはサトウキビ栽培が盛んで、主に砂糖をアメリカで販売したいと考えていました。
これは現代でも同じですが、他国から輸入は関税がかかります。関税が掛かるとその分販売する値段が上がるため売れ行きにも影響があり、できれば関税をなくしたいのが本音です。

そこでハワイとアメリカは、ハワイからアメリカへ輸入する砂糖など特定の品目に関税を課さない、また逆も同じでアメリカからハワイへ輸入する一部の品目には関税を課さない、持ちつ持たれつという相互主義条約を1875年に締結します

しかし、アメリカの目的はそれだけではありませんでした。ハワイが他の外国と経済的な結びつきを持たせないようにし、ひいてはハワイを軍事的な拠点にしたいという目論見がありました。ただこの部分に関してハワイは「No」と言い、条約には盛り込まれませんでした。

ですが、この条約には期限が設定されており、更新する時に内容の見直しがありました。この条約のおかげで砂糖販売産業は盛んになり、経済にもよい影響があったハワイ。1887年に条約を更新しましたが、そこにはアメリカが真珠湾に海軍施設を設置できるという独占使用権が追加されました。
ハワイアンにとって土地はとても大切なもの。これについては多くのハワイアンから反対の声があったとか…。

最高の技術、デザインのイオラニ宮殿の建築

1882年に完成したイオラニ宮殿は、約3年かかって造られました。
カラカウア王のイオラニ宮殿は時代の最先端を行き、一方で古きを大切にして、古いものの良い所を残しながら新しいものを取り入れています。
そのイオラニ宮殿は、現在アメリカ合衆国で唯一の王族の公式公邸です。
その建築費用は約36万ドルと言われており、明治初期は1ドルが日本円で1円、現代の相場が1ドル150円としても5,400万円。さらにいまの1円と明治時代の1円では物価価値が違いますので、その事を考慮すると…何百億、もしくは何千億だったりするかもしれません。
そこまでお金を掛けたのはメリー・モナークだからでしょうか。

 古代ハワイではヘイアウがあった場所
イオラニ宮殿周辺の土地は、かつてはヘイアウがあった場所です。その後はカメハメハ3世が1845年に公邸を築き、1874年まで王族に利用されていました。
カラカウア王も公邸としてこの場所で外交をしてきましたが、宮殿の老朽化が進んだため、建て替えることを決めました。

「ヘイアウ」とは?

「ヘイアウ(Heiau)」とは、日本語でいうと寺院とか礼拝所という表現がされますが、神に祈る場所です。戦いに勝つためのヘイアウ、豊穣を願うヘイアウなどその時によって用意される供物も、ヘイアウの形も異なります。ヘイアウはとても重要かつ神聖であり、ハワイアンにとっては大切な場所です。

 イオラニ宮殿の名前の由来
イオラニ宮殿は、ハワイ語の「イオ(ʻio)」と「ラニ(lani)」の組合せです。

イオ(ʻio)=ハワイノスリという鷹
ラニ(lani)=貴族、空、天空

それぞれの単語がこのような意味を持ち、「イオラニ」とは「王家の鷹」を意味します。
この名前は、ハワイ王国の4代目国王カメハメハ4世の名前から付けられました。

mahalo
mahalo
空からいつも見守ってくれそうな感じね

 最高の技術とデザインを纏った宮殿
イオラニ宮殿は、王様が要人と会う時に使われるなど外交のシーンで使われることもありましたが、宮殿というものの大邸宅という印象の建物だったようです。
カラカウア王が建て替える際、ハワイの歴史・文化を保存して行きたいと考えもあったため、これまでのものを大切にしながら、当時流行していたビクトリア朝の建築様式を取り入れて、装飾などによる華やかさをプラスし、過去と現代の融合を図りました。

発明家の一面を持つカラカウア王、テクノロジーについても最先端を取り入れます。
なんと、ハワイで初めての電灯をイオラニ宮殿につけました
この技術は、当時のアメリカ合衆国大統領官邸であるホワイトハウスよりも数年前に取り入れられたとされています。
さらに電話も設置されており、4台あった電話機は国王と王妃の寝室を2台の電話で結び、残りは国王の書斎と侍従の執務室を結びました。

ちなみに、日本で電話サービスが登場したのは1890年。カラカウア王が電話機を手に入れたのは1881年の秋。宮殿の部屋を結んだだけの電話ですが、9年も早く活用されていました。
最先端を取り入れ、自分で使ってどうか判断をされていたのでしょうね。

aloha
aloha
今のスマホを見たら…驚くこと間違いなしね

 イオラニ宮殿への思いとは…
かなりの費用をかけ、技術もデザインも最先端を取り入れたイオラニ宮殿。
ハワイはハワイアンのもの
歴史の過程で衰退していたハワイ文化に心を痛め、さらに世界情勢は目まぐるしく変わりゆく中で、ハワイ王国として世界に立ち向かうために、古き良きハワイの建築と近代建築を組合せ、世界に先駆けて最先端の技術を取り入れることで、ハワイもハワイアンも守り、その地位をゆるぎないものにしたいという思いがあったのかもしれません。

今日では「ハワイ王国」ではなく「ハワイ州」になりましたが、イオラニ宮殿は今でも多くの人が訪れる歴史的建造物として人気を博しています。

日本にも、世界一周の旅へ

1881年、カラカウア王はその目で世界を見るため、世界一周の旅に出発します。その期間は約9ヶ月でした。
そして日本に訪れましたが、日本にとっては初めてお迎えする国賓でした。日本ではカラカウア王を大歓迎し、多くの人々が通りに並び、ハワイ王国の国歌である「ハワイ・ポノイ」を演奏して敬意を表しました。
明治天皇の対応もとても丁寧でした。当時、天皇の横に並んで歩く人はおらず、国民は天皇が一人で歩く姿しか見ていませんでした。しかし、カラカウア王とは横に並んで歩いたとされています。それはお互いの立場が平等であるということの表れで、大変なもてなしをされたという印象を与えました。

 叶わなかったカイウラニ王女の縁談
カラカウア王は日本に対し、いくつかの提案をしています。その1つがカイウラニ王女と皇室の王子との縁談です。
山階宮やましなのみや家の定麿王さだまろおう東伏見宮ひがしふしみのみや 依仁親王よりひとしんのう)の人柄に感銘を受けたカラカウア王は、自身の姪であるカイウラニ王女の縁談を提案したのです。その背景には、日本と同盟を結びたいという気持ちもあったようです。
しかし、その時すでに定麿王には婚約者がいたので実現しませんでした。当時、アメリカもハワイに着目していたこともあり、縁談から話が進んで同盟ともなると、日本とアメリカの関係がどうなるかという部分もあったようなので、いずれにしてもこのお話は実を結びませんでした。

mahalo
mahalo
実現していたら…歴史は変わってたかも

 日本からハワイへ移民のお話
砂糖産業が盛んになったハワイでは、その働き手が不足していました。そのため、この世界一周旅行の間には様々な国から移民としてハワイへ来てもらえるよう交渉していました。
もちろん日本もそのひとつで交渉の結果、政府がハワイへの移民を斡旋し、多くの人がハワイへ渡りました。これは「官約移民」と呼ばれています。
ハワイに出雲大社があったり、「弁当」などの言葉が使われているのは、この移民制度でハワイに渡った人々が遺した日本との大切なつながりです。

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 有名な発明家に会っていたカラカウア王
「発明家」と聞いて、誰を思い浮かべますか?
白熱電球などを発明した「トーマス・エジソン」、電話を発明した「グラハム・ベル」、動力飛行機を開発した「ライト兄弟」、エレキテルの「平賀源内」

aloha
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電話を早く取り入れてたし、ベルさんかしら

1881年、世界旅行に出たカラカウア王は、訪れたニューヨークでトーマス・エジソン氏と会っていたのです。
ホノルルに電力の供給と電灯を付けることに関心があったカラカウア王ですから、そのプロであるエジソン氏に会いたいと考えており、それを実現しました。
カラカウア王はエジソン氏に
「エジソンさん、私はあなたの事は聞いていました。あなたとあなたの素晴らしい発明品を見てみたいと思っていました。」
と語ったと伝えられています。

エジソン氏に初期の電灯のしくみや今後の電力について尋ねたり、発明者らしい目線で会話をされたようです。
その際にエジソン氏が発明した蓄音機に録音をしました。いくつかの言葉が録音されたようですが、「Aloha kāua!(こんにちは)」というハワイ語も入っていたそうです。

 イギリスで作った2つの王冠
ダイヤモンド、パール、オパール、エメラルドなど、数種類の宝石がたくさん散りばめられた王冠を2つ作ることを決めたカラカウア王。ダイヤモンドの数は500個以上だったとか。
この時王冠は、カラカウア王とカピオラニ王妃用として2つ作られました。この2つの王冠の製作費は、当時の値段で約1,000ポンドだったそうです。この時世の1ポンドは約5円。そしてその当時1円で10kgのお米が買えたようなので…数千万円の王冠です

mahalo
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イオラニ宮殿に続き、王冠も高額。これもメリー・モナークと言われる由縁かしら?

そしてこの王冠は1883年にイオラニ宮殿で行われた戴冠式で、カラカウア王とカピオラニ王妃の頭に乗せられました。ただ、これだけお金を掛けた王冠が使われたのは、この1度きりだったようです。王冠はその後悲しい運命を辿ります。

ポリネシア諸国のリーダーを目指す

ポリネシアとは地理的にはハワイ、ニュージーランド、パスクア島(イースター島)の3つを線で結んだ時にできる三角形のエリア内が該当します。三角形の中にはサモアやトンガといった国が入っています。
そのポリネシア諸国の中でも発展が盛んで大国となったハワイがリーダーとなり、それ以外のエリア内の国の指導役を担って、他国からの侵略されないようサポートしたりして、ハワイの優位性を高めようという狙いがありました
それ以外の案ではポリネシア諸国と連合を組み、ハワイ帝国を樹立させようという思いも…。
しかし賛同したのはサモアなど一部の国だけで他国は賛同や承認はせず、実現とはなりませんでした。

ただ、この構想は元々カラカウア王が考えたわけではなく、カラカウア王が誕生する20年以上前、カメハメハ3世が統治していた頃に誕生していた構想でした。それもハワイアンが考えたものではなくオーストラリアに住んでいた外国人が発案したもの。シドニーのハワイ王国領事を務めたチャールズ・セント・ジュリアン氏によるものでしたが、カラカウア王がその構想を受けて実現しようと取り組んだのです。
その思いはやはりハワイを愛するからこそ、世界にも通用するハワイを目指していたのかもしれません。

カラカウア政権の崩壊

当時のハワイではハワイアンの人口が大きく減り、さらには富裕層には外国人が多く、ハワイアンは立場的にも弱くなっていました。さらにカラカウア王はそしてこれまでの活動が外国人富裕層から批判され、カラカウア政権は終焉を迎えます。

 ハワイアンの人口が多く減った理由
カメハメハ2世が王位に就いた頃、ハワイには多くの外国船(商業船)がハワイに訪れ、それ以降、宣教師、外国の富裕層、移民など、時の経過と共に多くの外国人がやってきました。人の動きがあるというのは同じように病気、ウイルスも一緒にハワイにやってきてしまいました。インフルエンザ、麻疹、おたふく風邪など様々な病気も入ってきてしまったのです。
これまで自国にはない新しい病気には、当然免疫がありませんでした。その結果、ハワイアンの人口は大きく減少してしまったのです。

 自国なのに立場が弱いハワイアン
全てのハワイアンの立場が弱かったわけではありませんが、このころの富裕層は外国人が多く、ハワイの政治への関わりも大きくなっていました。
そもそもハワイアンの立場が弱かったのは、それまでの歴史の中でハワイアンに分け与えられた土地を外国人富裕層が取得してしまい、ハワイアン自身が土地を失い、貧困に陥ってしまったため。その取得の方法は合法だったり、非合法だったりしたようですが、みんなで支え合って暮らしてきたハワイアンにとっては、土地に関する新しい制度が十分に理解できていなかったのかもしれません。
ハワイアンの支持は得ていたカラカウア王ですが、その支持は政権に影響を与えないところにありました。

mahalo
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ハワイの王と土地が同義であるハワイアンにとっては悲しい…

 ハワイを思うがゆえに、外国人からは不評
カラカウア王は衰退するハワイの文化・伝統を、ハワイのために復活させました。その中のひとつがフラダンスです。
フラダンスは宣教師から淫らな踊りとされていましたが、それを自身の戴冠式で披露し復活させました。ハワイアンは深い感銘と喜びに包まれましたが、外国人からは批判を受けました。
また世界一周旅行、戴冠式やポリネシア諸国のリーダーを目指すために多くのお金(国費)を使いました。カラカウア王としては、ハワイ国民を守りながら他国と関係を深めるための方法だったのですが、これらも外国人からは不評でした。

 外国人によるハワイアンリーグの結成
カラカウア政権に対する不満、批判はハワイアンではなく、ハワイにいる外国人から寄せられていました。
1887年初頭にハワイアンリーグが結成され、その年の5月頃には会員の募集を開始し、最終的には400名程の会員がいました。中には島のリーダー的なメンバーも含まれていたようです。
このリーグの目的は、「ハワイ諸島において、あらゆる必要な手段を用いて、形式のみならず事実上も、立憲的な代表制政府を樹立すること」です。
ハワイ王国は国王がすべての権限を持つ絶対君主制で始まり、カメハメハ3世の治世で立憲君主制に変わっていましたが、議会メンバーは国王が決定・任命していました。つまり、国王にとって有利な状態=国王が自由に何でもできると思われていたのです。

 1887年、銃剣憲法へのサイン
ハワイアンリーグは「あらゆる必要な手段を用いて」その状況を変えることが目的で結成されていました。彼らのクーデターを予期したカラカウア王は、自分が任命した議会メンバーを解任しましたが、それだけでは状況を治められず、暗殺の危機がありました。
そしてハワイアンリーグによって新たな憲法が作成され、カラカウア王はその新しい憲法に署名しました。その際、かなりの強制力をもってカラカウア王に迫っており、この時もまた、命の危機にあったとされています。

ハワイアンリーグは、ホノルルライフルズという軍事組織と連携しており、リリウオカラニ女王も「署名しなければカラカウア王は暗殺される可能性があった」という内容を残しています。
そう、カラカウア王は度重なる ” 命の危機 ” に直面していたのです。
その武力による圧力があったことから、この憲法は「銃剣憲法(Bayonet Constitution)」と呼ばれています。

新たな憲法により

・これまでのように国王が単独で議会メンバーを選んだり、役割を任命することができなくなった
・選挙権の資格要件が見直され、多くのハワイアンが上院議員に投票できなくなった


mahalo
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「ハワイはハワイアンのもの」なのに、ハワイアンが積極的に選挙に参加できないなんて…

カラカウア王の晩年

銃剣憲法により国政への関与が難しくなったカラカウア王でしたが、ハワイアンと共に新しく発足した政権を倒し、新たな憲法の制定(銃剣憲法を覆し、以前のように国王に権力を与える)を目指していました。
しかし、思うように事態は進みません。さらに、カラカウア王の健康状態は悪化して行きます。

 長期休暇でアメリカ西海岸へ
1890年にカラカウア王の健康状態はかなり悪化しており、最初はハワイ島で長期休暇を取る予定でしたが計画は変更され、アメリカ西海岸で過ごすことになりました。
サンフランシスコなど西海岸エリアでカラカウア王は、とても温かい歓迎を受けました。その事について「こんなのはかつて見たことがない」と言ってしまうほど、素晴らしかったようです。

 ハワイに帰る前に天国へ
そして途中の南カリフォルニアであまり体調が良くない状態になりました。
体調が良くないことを明らかにしてから軽い脳卒中を起こすなど、徐々に容態が悪化して行きます。医師たちも懸命な努力をしますが、1891年1月20日、カラカウア王はサンフランシスコで亡くなります

 大切なハワイアンが待つハワイへ帰る
サンフランシスコで逝去したカラカウア王に対する追悼式がトリニティ教会が執り行われた後、いよいよハワイへ帰ります。
できるだけ早くホノルルに到着せよ
このような命令が出されているため、カラカウア王を乗せた船「チャールストン号」は、追悼式終了後すぐにホノルルへ向かいました。

 国王逝去を知らなかったハワイアン
ハワイでは多くの人々がカラカウア王の到着を待ち、祝賀の準備を整えていました。そう、カラカウア王が亡くなったことは、チャールストン号がダイヤモンドヘッド沖に姿を現すまでハワイでは知られていなかったのです
現在とは違い、情報の伝達には時間を要する当時は、国王の帰還と共にその事実を知るのでした。

チャールストン号がダイヤモンドヘッド沖に入った時、ダイヤモンドヘッドの灯台守が船を見つけ、カラカウア王が帰還されたと思いましたが、船尾に掲げられていたアメリカ国旗とハワイ国旗が半旗になっていたのです。
半旗を掲げる、それは喪の意味を表していることは灯台守も理解しており、カラカウア王が亡くなったことを悟りました。そのニュースはハワイを駆け巡り、祝賀会は国王の葬儀に代わったのです。
イオラニ宮殿や街中では祝賀の飾り付けが施されていたので、急いで撤去されるとともに弔意を表す黒い布で覆われ、それと共にハワイは深い悲しみに包まれました。

 そして、王家の霊廟へ
1891年2月15日、カラカウア王の葬儀は盛大に、そして多くの人が敬意を表するものとなりました。
カラカウア王の棺は、イオラニ宮殿からハワイ王家の霊廟「マウナ・アラ」まで約2時間程掛けて向かいました。その後、厳粛な儀式を終え、カラカウア王は今もその場所に眠ります。

さいごに

「メリー・モナーク」陽気な王様と呼ばれるカラカウア王。歌や踊りが好きで、好奇心やチャレンジ精神も旺盛で、その愛称の由縁もわかりますね。
そしてハワイを愛し「ハワイはハワイアンのもの」という精神を常に持ち、新しいことだけでなく、消えゆくハワイの伝統・文化を批判を受けながらも復活させました。

一方で外国との関係、ハワイ国内の外国人富裕層、そして大切なハワイアンの舵取りはとても難しいものでした。ハワイ王国が倒される道へと繋がる「銃剣憲法」への署名もありました。

しかし、今日でも人気な理由は、フラダンスなど古代ハワイから伝わるハワイアンのアイデンティティをしっかりと残すことができたから
フラダンスはハワイのみならず、日本や他の国でも愛されるものとなり、カラカウア王も天国で喜び、フラダンスを舞っているかもしれませんね。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
Mahalo nui loa!! A hui hou!!

参考文献

ハワイとフラの歴史物語
The Hawaiian kingdom vol. 3


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