ハワイ王国には歴代8人の君主により統治されていました。私たちがよく知るカメハメハはカメハメハ1世ですが、その後はカメハメハ2世~5世が君主です。ハワイ王国で2番目の君主となったリホリホ王についてご紹介します。
カメハメハ2世の誕生と二人の母
偉大なる王カメハメハ1世の長男として誕生したカメハメハ2世。2代目のハワイ王国の君主となることが決まっているため、幼少期から期待されていました。
カメハメハ2世の基本情報
まず初めに、カメハメハ2世の名前、生年月日などの基本的な情報を見てみましょう。
- 名前
カラニヌイ・クア・リホリホ・イ・ケ・カプ・イオラニ
Kalaninui kua Liholiho i ke kapu ʻIolani
※上記は出生時の名前。王位に就いたとき名前を変更。 - 生年月日
1797年11月※日付は不明 - 亡くなった日
1824年7月14日没(26歳) - 出生地
ハワイ島 ヒロ
名前の意味
カメハメハ2世の出生時の名前は、カラニヌイ・クア・リホリホ・イ・ケ・カプ・イオラニ。
名前を解説
カラニヌイ・クア・リホリホ・イ・ケ・カプ
<意味>燃えるようなタブーを持った偉大な首長
<解釈>後ろからは近づけないほど燃えるように輝き、偉大
”リホリホ”は「非常に熱い」、「燃えるように輝く」などの意味
またイオ=鷹(ハワイノスリ)、ラニ=天空・天国の意味があり、”イオラニ”は「天空の鷹」
出生と二人の母
カメハメハ2世となるリホリホ王は、カメハメハ1世と最高位の妻ケオプオラニ王妃の長男として誕生しました。ハワイ島にいた王妃は出産のため、オアフ島のクーカニロコバースストーンがある場所へ移動する予定でしたが、体調がよくなかったため移動はやめ、ハワイ島ヒロでリホリホ王を出産しました。
カメハメハ1世からリホリホ王の後見人となるよう命を受けたのが、カメハメハ1世の妻カアフマヌ王妃です。継母としてリホリホ王子を育てていきます。
※この当時は一夫多妻制でカメハメハ王には複数の妃がいました。
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激動の時代を迎えたハワイ
1819年5月、カメハメハ1世の死去に伴いハワイ王国2代目の君主となったリホリホ王。22歳という若さだったため、実権は継母であるカアフマヌ王妃に握られてしまいます。
ハワイの人々にカアフマヌ王妃は「カメハメハ2世と二人で政務を行います」と発表します。これがクヒナヌイ(共同摂政)の始まりとなり、リホリホ王にそれを拒否する権限はありませんでした。
そのような状況の影響か、リホリホ王は”カメハメハ2世”という称号がありますが、”イオラニ”と呼ばれることを好んでいました。
カプ制度の廃止
当時のハワイには「カプ」と呼ばれる制度がありました。カプ(kapu)とはハワイ語で禁止、タブーを意味する言葉です。一般の人たちがしてはいけないこと、食べてはいけないものなど各種細かなルールが設けられ、権力者のみ特権で許される行為がありました。そうすることで人々を支配し、権力を保っていました。
<カプの内容>
男女が一緒に食事をしてはならない
女性は豚やバナナを食べてはいけない
王族の影を踏んではいけない
上記はカプの一部ですが、食に関することは「アイカプ」、首長に会うときは「カプヒリ」と呼ばれるカプが存在し、その他にも漁に関することなど、職業や性別などによっても細かいカプが設定されていました。
カプを守らないとどういうことが起きるか・・・多くの場合は「死」につながると信じられていました。制度を守らなかったため、取り締まるものによって刑罰を与えられる、それがなかったとしても神により罰が与えられると信じられ、カプを守らない=死という考え方になっていました。
カプ制度の終焉と背景
そのカプ制度を廃止したのは、カメハメハ2世であるリホリホ王です。ただ、廃止へと導いたのは継母でありクヒナヌイであるカアフマヌ王妃、母であるケオプオラニ王妃でした。
二人の母はそれまでの経験から、男性がカプを理由に女性に制限をかけ、縛り付けていると感じており、カアフマヌ王妃がカプの廃止を主張しました。リホリホ王が取り合わないでいると、カアフマヌ王妃は男性が食事しているところに入って一緒に食事をしたり、豚やバナナを食べたり、カプを破る行動を取りました。
リホリホ王の元に罰するよう声が上がりますが、そうすることもできず、そのうち天罰が下ると思っていましたが、一向にその気配もなく。そうこうしているうちに母ケオプオラニ王妃から「自分と一緒に食事をするように」と言われ、リホリホ王は悩みつつもそれに従い、自らもカプを破ったのです。
その後、リホリホ王は男女多数の王族や外国の方との宴席で食事を共にしました。それを見たハワイの人々は天罰が下ると怯えましたが、何も起こらなかった結果、どこからともなく「カプを破っても天罰が下らないとは・・・神はいないのではないか」という声が上がり、カプ制度が終わりを迎えました。
儀式の廃止
ハワイ神話で多くの神が登場するように、古代ハワイでは神を信じ、神の像であるティキを崇め、儀式をするときは神聖な場所となるヘイアウを作り、執り行ってきました。
しかし、カプを破っても天罰が下らなかったため、人々は神の存在、これまでの儀式なども必要だったのかと疑念を抱きます。
そしてついにリホリホ王よりハワイ各地に指令が出され、ヘイアウやティキが壊されてしまいました。
古代の教えを守るために戦う者
カメハメハ1世はリホリホ王をハワイ王国の君主としましたが、宗教的な部分は別の人に守ってもらうよう話をしていました。それはカメハメハ1世の甥であり、リホリホ王のいとこであるケクアオカラニです。
カメハメハ1世のお気に入りの甥であったケクアオカラニは、戦いの神”クーカイリモク”を守る命を受け、その役割に誇りと責任を持っていました。ケクアオカラニはカプや儀式の廃止を行うリホリホ王に憤りを感じており、リホリホ王も話し合いをしますが物別れに終わってしまいます。
リホリホ王の母ケオプオラニ王妃でもケクアオカラニを説得できず、最後はリホリホ王軍とケクアオカラニ軍の戦いとなり、ケクアオカラニが破れます。
こうして儀式の制度も廃止へと向かいます。
勉強熱心なリホリホ王
その頃のハワイには貿易船などの外国船が多く入港し、ハワイの社会や文化に影響を与え始めていました。
カメハメハ1世はハワイの思想や儀式を守りつつ、貿易を積極的に行い、ハワイを繁栄させるつもりでした。リホリホ王の頃には外国の影響が大きくなっており、一部の人は個人の富を増やすことに意識を向け、王権の強化を望んではいませんでした。
リホリホ王はハワイを守りながら、外国の対応などについてどうするか考えていました。
社会勉強と政治的支援を求めイギリスへ
ハワイへ来ている外国を見るだけでなく、自ら外国へ出てその目で確かめる方法を取ったことで、リホリホ王はハワイ王国で最初の海外旅行を行った王となります。王妃や付き添いの方などと一緒に1823年11月、ハワイを船で出発しました。
なぜイギリスだったのか
リホリホ王がイギリスを選んだ理由は、父であるカメハメハ1世にあります。
カメハメハ1世は、イギリスのクック船長と共にハワイを訪問したバンクーバー船長と親交を深めていました。バンクーバー船長は、領土の統治方法や諸外国との接し方などについて、カメハメハ1世に教えていたのを知っていたからです。
約6カ月かけてイギリスへ
1824年2月にブラジルの首都リオデジャネイロに到着します。ブラジル王室から歓迎を受け、リホリホ王は美しい羽根のマントを、ブラジル皇帝からは素晴らしい剣を贈られました。
そして1824年5月にイギリスに到着しました。
ジョージ4世に会うことは叶わず
外国を見て、新たな知識を学び、イギリスの政治的支援をしてもらうことで、他の外国からの政治的干渉を防ぐことが、この旅の目的でした。イギリス国王ジョージ4世に会い、支援をもらう予定でしたが、その前にリホリホ王は”はしか”にかかります。
王妃もはしかにかかり、さらに肺炎を併発。その結果、王妃は亡くなります。王妃を愛していたリホリホ王はひどく悲しみ、王妃が亡くなった6日後に亡くなります。
大きな変化を伴う治世
リホリホ王は約5年間、ハワイを統治しました。その間にカプ、儀式の廃止があり、それは自身が主導で進めたものではなかったものでした。
父カメハメハ1世の権力やカリスマ性が大きかったこと、王に就いたときはまだ若く、知識もカリスマ性も多くなかったため、周りの影響を大きく受けた治世となりました。
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